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15. 補佐官は頭を悩ます

「――で、どうだった?」
 読みかけの書類を脇におき、ジーロは部下を見上げた。
 主が戻ってくる前に、覗き、、の報告である。
 ヒロドは姿勢を正し、報告を始めた。
「やはり、副宮殿長の言い付けで、侍女二人が娘の世話を焼いておりましたが、若君に追い払われました」
 食事の後、ロハンは杏奈を連れ、自ら宮殿内を案内。いやあ、暇そうでいいねぇ。その途中で執務室に寄ったというわけだ。
「案内中、若君のお言葉に、娘はうなずくなどの反応はするものの、ずっと無言で。しかし、若君は気にされるふうもなく、終始柔らかなお顔付きで」
「ふうん……」
 確かに、杏奈に対する物腰は柔らかかったが。お顔までがねぇ。
「どことなく、娘との距離が近いのです。その……肩を寄せる、という感じで。娘のほうは、ほぼ無反応でしたが」
「反応なし? そりゃ凄い」
「そうなんです。普通の娘ならば、真っ赤になって俯きそうなものなのに」
 男の私でも、若君に肩を寄せられたら一溜りもありませんのに……、とヒロドはごにょごにょ。
「四階では、若君が娘の手を引かれておりました」
「はあ? ロハンが女に触ったぁ?」
 天変地異の前触れか。
「その後、回廊の庭で突然娘が喋りまして」
「手を引かれた衝撃で、失語症が治ったか」
「そうかもしれません。あり得ないことに、第一声は『ネズミ』でしたが……」
「ネズミ?」
「若君は娘が喋ったことに痛くお喜びで。愉しそうに大笑いされました」
「笑っただと?」
 ジーロは目をむいた。
 眩いばかりの美貌を持つロハンだが、交渉事があるとき以外は、基本的に冷たい顔だ。特に女の前では警戒して、口角を上げることすら滅多にない。己の微笑みには蠱惑の毒が含まれていると本気で信じており、嫌悪してもいるからだ。
 それでもジーロと二人きりのときには、冗談に大笑いすることもあった。それが、突然笑わなくなった。遊学と称して国を出奔する、少し前のことだ。
「愉しそうに笑ったのか……」
 ジーロは惚けた呟きを漏らした。
 ロハンが声を立てて笑うのを、最後に見たのはいつだろう? 久しぶりにジーロも破顔したロハンを見たかった。
 その後、回廊の庭に大きなフクロウが舞い降りてきてひと騒動あったらしいが、ジーロはロハンの笑顔ほど惹かれなかった。
「フクロウが庭の木に移った後、二人は三乃宮のほうへ行ってしまったので、追えたのはそこまでです」
 連中がアンナのために用意した部屋を見にいったのだろう。行き先は分かっている。
「……他には?」
 ジーロは聞いた。
「些細な事でもいいが、なにか気付いたことは?」
 ヒロドが、考えるふうに視線を漂わせる。
「そういえば、食事の所作が美しいと感じました。カトラリー選びに、迷う素振りもなく」
「……おかしかないか? あの娘は天涯孤独の、ドがつく庶民のはずだぞ」
「しかし、食べ方だけなら、どこかのご令嬢と遜色なく」
「他に? 気になったことは?」
 急に不安が押し寄せてきて、ジーロは早口にたずねた。
「例えば……そうだ、どこかのタイミングで、ロハンが〈鏡の死〉に関して詳らかにしただろう? 娘の反応はどうだった?」
 トマヤの人間ならば、誰でも知っている〈鏡の死〉。
 しかし周知されているのは、

〈人を殺せば、〈鏡の死〉に捕まって、自分も死ぬ〉

 という大雑把な事実のみ。
 実際に捕まったらどうなるの? と子供にたずねられても、細かく説明できる者は滅多にいない。「そんなに悪い子だと〈鏡の死〉に捕まっちまうよ」と子供を脅かすための常套句だと信じている大人も多いはずだ。
 人殺しとは無縁に、安穏と暮らしている者がほとんどだから。
 平和な世では、〈鏡の死〉なんてお伽噺の呪いみたいなものだから。
 故に、獄に来た新顔には、着いたその日に、〈鏡の死〉について詳しく教えるのが四乃宮の習わしなのだ。

「そういえば……」
 ヒロドがつと目を見開いた。
「若君は四乃宮について説明なさっていましたが、〈鏡の死〉については、昨日も今日も、まったくご説明なさいませんでした」
「しなかった?」
「思い返してみると、若君は、娘が〈鏡の死〉の詳細について知っていることを前提にお話しされていた……ような」
「そう考える理由は?」
「今朝方、モリト=アンナは夢にうなされて、若君に揺り起こされました。そのとき、若君が『弦月であるのを忘れていた』と娘に謝っておられたのですが」
「弦月……?」
 反復して、ジーロははっと思い至った。
「囚人の気を触れさせるという、例の悪夢か」
「娘もいまのジーロ様と同様、はっとした様子で。悪夢が〈弦月の先触れ〉だったと理解して、蒼ざめたように見えました」
〈弦月の先触れ〉といえば、〈鏡の死〉の中でも特に残酷な呪いであるため、触れることすら忌まわしく、囚人が身をもって知るまでは、あえて教えられないと聞いているのに。
 すでに知っていた? 平民の娘が?

〈鏡の死〉のすべてを知っているのは、王族と国の上層部と四乃宮の職員。加えて、極めて特殊な位置にいる、ひとりふたり。
 娘はその希少な一人だとしたら。
「連中、とんでもない娘を人柱にしたのでは……」
 呟いたそのとき、唐突にヒロドが目の前から消えた。
 次の瞬間、宮殿長室の扉が開き、ロハンが戻ってきた。

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