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『懸想文売り』最終章〈渡せなかった懸想文〉

渡せなかった懸想文(伊織の場合)

 
 限りなき雲ゐのよそにわかるとも人を心におくらさむやは

 五年前。
 ラブレターの文面に悩んで、四苦八苦。
 相手は、七つも年下の小学生。
 結局、「行くな」の一言しか書けなかった。
 
 三年前。
 またもや恋文を書こうとして、四苦八苦。
 相手は、七つも下の中学生。
 躍起になっても、やっぱり「行くな」しか思い浮かばなくて。
 
 ヤケクソで、懸想文売りなんて始めてみたが、てんで役に立たねぇな。

 いま再び。
 文に悩んで、四苦八苦。
 相手は、やっとこさ成人する高校生。
 懸想文売りの本領発揮で、ペン先から甘い言葉が迸ると思いきや、便箋は未だに真白なまま。
 遠い昔に詠まれた歌より、心に添うものが浮かばない。
 

 行くな。
 いえたらいいのに。
 行くな。
 口にはできない、この言葉。


壱. 来客_千歳


「ねえ、蓮華さん、なにがいいと思います?」
「いや、そんなん俺に聞かれても」
 舶来屋の看板娘の椿原千歳が、前触れもなく工房にやって、七代伊織に贈り物をしたいのだけれどなにがいいか、と藪から棒に相談を持ち掛けてきた。
「色々と心配かけちゃったから、その謝罪を込めて。でもね、私がいいと思う品って、三十手前の男の人には……」
「三十手前っていうな」
「じゃあ、二十代後半」
「同じや」
 欲しいものなんて人それぞれやと言い返すと、作業台の隅に陣取った千歳が分かりやすくむくれた。
「蓮華さんはいま彼女とラブラブなんだから、ちょっとくらい幸せのお裾分けをしてくれたっていいじゃないですか」
 いま作ってるそれもリリーさんのでしょ? と蓮華の手元を指さす。
「い、いや、これはっ」
「あーあ、女の人への贈り物はバリエーションがあっていいなあ」
 ふんす、と千歳は鼻から息を吐き、作業台に頬杖をついた。
「流石にもう、ぬいぐるみをあげるわけにはいかないし」
「ぬいぐるみ……」
「小学校のクリスマスには巨大パンダで、中学校のクリスマスは巨大トトロ」
 大きなぬいぐるみを抱えて顔を引きつらせている伊織を想像し、吹きだしそうになった蓮華だ。
 しかし千歳のほうは、ウケ狙いでプレゼントしたわけではなかったようで、
「だって、あの頃伊織、なんだかおかしかったんだもん。私を見ると、母親にしがみつくみたいに、ぎゅうぎゅうしてきて……」
 だから、独りのときでもぎゅうぎゅうできるぬいぐるみがいいかなって、できるだけ抱き心地が良さそうなのを選んだのだと、至極真面目な顔で宣う。
 蓮華は察した。つまり、いま再び、伊織の奴の様子がおかしいということか。
「まあ、誘拐未遂なんてもんがあって、ケロッとしているほうがおかしいやろけど……」
「でも、たぶん、原因はそこじゃないと思うんです」
「違う?」
「うん」
 千歳は小さくうなずいたが、彼女の頭にある〈本当の原因〉については口にせず、「だから私ね」と続けた。
「私は来年も一緒にいるよ、っていう気持ちが伝わるなにかを、伊織に贈りたいんです」
「来年だけでええんか? 安心させたいんやったら、〈一生ずっと貴方の傍にいます〉的なプレゼントのほうがええんとちゃうか?」
 例えば指輪とか、と蓮華は手の中にある金の輪っかを見る。永遠の愛を誓うリングを作っている蓮華としては、当然の帰結だろう。内心では、千歳自身にリボンを掛けて、プレゼントするのが一番だと思ってはいても。
「高校生の〈ずっと〉なんて、当てになりませんよ」
 千歳はかぶりをふった。
「蓮華さんだって、覚えがあるでしょ。カーってのぼせて、クラスが変わった途端にヒューって冷める、淡い恋。なんであんなにあの子が好きだったんだろうって、思い返して首をひねる恋」
「微笑ましいお子ちゃまの恋ってやつやな」
 そんなん誰にでもあることやろ、と応じれば、
 ほらね、と千歳が小さく口を尖らせる。
「つまり、子供が大人に一生の愛を誓ったって、大きくなったらパパのお嫁さんになる! って宣言するのと大差ないってことですよ」
 だから、来年くらいがちょうどいい、背伸びしたってしょうがない、と宣う彼女は、なんと大人であることか。
 感心していると、突然工房の扉ががらりと開いた。このところ、仕事がひと段落つくと「今夜は飲むぞ」といって工房に押しかけてくるリリーである。
 いつものようにビールが入ったビニール袋を揺らしつつ、リリーはいった。
「そんなら、育てる系のものはどない?」
 途中から立ち聞きしていたらしい。
「花が咲くまでに一年くらいかかるような鉢植えにして、来年花が咲いたところを一緒に見ましょうよ、っていうの」
「ほな、味噌とかどないや?」
 冷蔵庫の中のリリーが持ち込んだ自家製味噌を思い浮かべつつ、蓮華はいった。
「一年発酵させて、来年美味しく食べましょうとか」
 あの味噌でリリーが作ってくれたお汁は上手かったなぁ、とじんわり幸せを嚙みしめかけたが、
「あんた、女から愛の告白でお味噌もろて嬉しいか?」
 じろり。リリーに睨まれる。
「え? せやかて『響子さんの作った味噌汁食べたい』ってプロポーズの言葉やろ」
「昭和か! 『めぞん一刻』か! 大体、あのプロポーズは失敗やったやろ!」
「え、せやった?」
 やいやい言い合っていると、
「……夫婦漫才が始まったようなので帰ります」
 千歳は諦めた様子でため息を落とし、お邪魔しましたと帰っていった。

弐. 来店_伊織

「昨日は伊織くんで、今日は千歳ちゃんか」 
 ほんま、なにやってんねんあの二人。
 千歳がいなくなった工房で、リリーがぼそりと呟く。

 昨日の晩、七代伊織が突然訪ねてきた。
 まさしく、勝手知ったる他人の家で、
「キッチン借りるぞ」
 と台所に入ってつまみを作り、
「先にやってるぞ」
 と自分で持ち込んだワインを、独りで勝手に飲み始め。
 蓮華がテーブルに着いたときには、すでに瓶が一本空になっていた。
 伊織が本題を口にしたのは、二本目のコルクを抜き、蓮華のグラスに白ワインを注いでいるとき。
「……ちとが東京に行っちまうかもしれねぇ」 
 いつもはいくら飲んでもケロッとしている男だが、珍しく酔っているようだった。
「は? どういうことや」
「誘拐未遂のことがあって、ちとの母親が娘を東京に呼びたがってる」
「あちゃぁ」
 顔をしかめる蓮華の前で、伊織はぐいっとグラスを呷った。
「いままで二回だ」
「は? なにが?」
「ちとが中学に上がるときと、高校受験のタイミングで。母親が、娘を引き取りたいと仁さんに打診してきたことがあった」
「仁さんがそうゆうたんか?」
「いいや、二人とも俺にはひた隠しにしてた。けど、気付かないでか、だ。大荒れの千歳を見りゃあな」
 椿原家の事情を知らなくても、千歳の親が生きていることを、なんとなく伊織は肌で感じ取っていた。
「それに、気持ちはわかる。娘らしくなってきたちとが、若い男と一つ屋根なことに、難色を示したくなる親の気持ちはな」
 一度目はまだ叔父の仁さんがいたため、話は流れたそうだが。
「流石に高校に上がるときはな」
 伊織が苦笑い。
「少し前から、仁さんが長期で家を空けるようになってたし。躍起になってちとを説得しようとしたみてぇだ」
 だが結局、二度目も千歳が拒んで神戸に残った。
「そんときも、俺には一言もなかったなぁ」
 寂しげに伊織がグラスを揺らす。
「ちとからクリスマスプレゼントに巨大なトトロのぬいぐるみを貰ったときには、餞別かと思って俺も覚悟したんだが……」
 今度こそ、あいつは行っちまうのかなぁ、と宙に視線を漂わせる。
 蓮華は胸が痛くなった。
 同時に、ヘタレな男の尻を叩きたくなった。
「恋文書きがなに泣き言ゆうてんねん。懸想文売りやったら懸想文売りらしく、行かんといてくれって華麗にしたためて引き留めたらええんや」
 ワイングラスをまわしつつ、冗談交じりにケツ叩き。
 だがしかし、
「そんなのとっくに書いてるよ」
 伊織は真顔で答えた。
「俺が最初に書いた懸想文は千歳宛てだ。ちとが小学六年生で、俺が二十歳のときだったかな」
 渡すつもりはなかったが、と苦笑気味に続ける。
「願掛けみたいなもんだ。ちゃんと恋文の形に仕上がったら、あいつを引き留められるような気がして」
 行くな。
 その一心で、ペンを執った。
「でも、上手く書けなくてなあ……。気が逸るばっかりで、なにも浮かんでこなかった」
 記憶を呼び起こすように、伊織がつと遠い瞳になる。
「そんなときだよ。懸想文売りに出会ったのは」

参. 懸想文売りの夜店


 ちょうど港で花火が打ち上げられる夜で、千歳は叔父と一緒に出掛けていた。伊織も一緒に行こうと誘われたが、蚊帳の外状態にムカついていた伊織は、行かないと突っぱねた。
 だが、居残ってやっていることといえば、千歳への恋文書き。
「けど、どんなに頭を捻っても、『行くな』以外の言葉が浮かんでこなくて。むしゃくしゃした俺は、ペンを放りだして夜の街に出ていったんだ」
 花火大会の夜らしく、営業を終えた商店の前にも、夜店の屋台が出ていた。伊織は適当に冷かしながら、花火会場の喧噪から逃れるように、西へ西へ暗がりのほうへと歩いていった。
「そのときだ、あの夜店を見つけたのは」
 ビルとビルの狭い隙間に、ぽつんと一つ。ほんわり明るく浮かび上がる夜店が一軒。
「暗がりにこっそり隠れているような店なのに、若い娘が競うように店を覗き込んでいて。娘たちの浴衣の袖が海風にひらひらと揺れていて、遠目には、蝶々たちが灯りに群がっているみたいで」
 興味を引かれて近付いてみると、妙にキラキラした屋台だった。
 浴衣の女がいなければ、日本の夏祭りではなく、ヨーロッパのクリスマスマーケットだと勘違いしそうな雰囲気。
 色ガラスやビーズ、スパンコールなどの光物、フラワーリースやリボンで可愛らしく飾られた屋台は、いかにも婦女子にターゲットに絞っております、という感じ。
 上からぶら下げられて、七夕飾りのようにひらひらしている短冊も、よく見れば洋柄のポストカードで。
「いらっしゃいませ。懸想文売りでございます」
 店番の男が、柔らかい声音で宣った。藍色の縞の着物を緩く着流した、織よりも少し年嵩の若い男だ。
「懸想文……?」
 解らないまま、短冊の一つに手を伸ばした伊織に、
「ラブレター屋さんやで」
 と隣にいた娘が教えてくれる。
「なあ、お兄さん。どれが一番素敵かなあ?」
 伊織は、文を嘴に挟んで届ける燕の絵柄のポストカードを指でつまみ、裏返したが、
「よそ……?」
 書かれている崩し字が読めず、眉根を寄せた。
 店番がふっと微笑んで、すらすらと読んだ。

 限りなき雲ゐのよそにわかるとも人を心におくらさむやは

「遠い遠い雲の向こうにあなたが行ってしまっても、心は傍におりますよ、という切ない想いを詠んだものです」
『古今和歌集』に収められている歌だという。
「実はこれ、〈離別歌〉の中に入っているんですが、私には恋の歌に思えてね。なんというかこう、離れ難い想いが滲み出ている感じがいいじゃないですか」
「離別の歌なん? これ!」
 不吉やわ! と娘が短冊に伸ばしかけていた手を引っ込める。
 だが伊織は「これください」と財布を出した。
 店番の男が相好を崩して礼をいい、同じ燕柄の封筒にカードを入れて渡してくれる。
 伊織は代金を払いつつ、たずねた。
「あの……いつもこんな感じで恋歌というか、ラブレターを売っているんですか」
「いえいえ、そうじゃありません」
 これは私の趣味のようなもので、と店番はひらひらと手をふった。
「店を出す度に、趣向を変えております。今日はたまたま尾形亀之助の〈商に就いての答〉という詩から想を得た屋台にしたので、懸想文売りの夜店になっただけで」
「尾形……?」
「ご存じありませんか? 宮城出身の詩人」
「いや……」
「マイナー過ぎたかな?」
 店番は首を捻り、次は立原道造の〈雲の祭日〉あたりにして、綿飴でも売るかなあ、と独り言ちている。
「とにかく、商いに趣向は大事です」
 商いを飽きないためにね、と懸想文売りは駄洒落で締め括り、別の客の方へ行ってしまった。

 懸想文売りの話を終えたときには、二本目のワインの瓶が空になっていて、
「知ってるか?」
 と聞いた伊織の呂律はちと怪しかった。
「NHKの歌番組は、紅白歌合戦のための練習なんだぜ」
「は、なんの話?」
「俺の懸想文は、あいつへの想いの丈を綴るための練習だったこと」
 でも、どんなに書いても無駄なんだ。あいつはやっぱり俺から引き離される。
「いっそのこと、この前の誘拐未遂の真相を暴いてやったほうが、手っ取り早くていいかもな……」
 物騒な呟きを残して、伊織は帰っていった。
 

「拗れてるみたいやな」
 昨夜伊織が残していったワインを開けながら、リリーがいった。
「さっきの様子やと、千歳ちゃん、昨日伊織くんがここへ来てたの知っとった。ほんで、あんたがなんかぽろっと口滑らせんの、待っとった」
「あいつがぎゅうぎゅうしたいんは、ぬいぐるみやなくて千歳ちゃん丸ごとや、てか?」
「それもあるけど、懸想文売りを始めたきっかけとか、教えたってもよかったんとちゃう?」
「せやかて、又聞きはようないやろ」
 拗れるもとやで、と蓮華が嘆息したとき、作業台の上でリリーのスマホが震えた。
「千歳ちゃんからや」
 リリーと二人で画面を覗き込めば、送られてきたのは本の表紙と思しき写真。
 花蝶柄の翠の長着に鱗文様の帯を締めた、目力の強い娘が描かれている本のタイトルは『百貨店ワルツ』。
 マツオヒロミというイラストレーターの作品らしいが。
「なんやこれ?」
 二人で首をかしげていると、続いてメッセージが入った。
〈伊織の懸想文売りの夜店の話は、信じちゃダメですよ。あれは、この本のパクリです〉
「え?」
「はぁ?」
 蓮華とリリー、揃って目をむいたことはいうまでもない。

 

肆. プレゼントとは


 開けっ放しの伊織の部屋に、千歳は足を踏み入れた。
 左側に作り付けの大きなワードローブがある、フローリングの六畳間。
 おかれている家具は、ベッドと本棚と勉強机だけだが、賑やかしはそれなりだ。
 ラグの上に転がっている、巨大パンダとトトロのぬいぐるみ、ベッドの上のペンギンの抱き枕。
 本棚の上の、白熊の目覚まし時計と招き猫の貯金箱、白兎の匂い袋。
 机の上の茶虎のペン立てと、黒柴のスマホ立て。
 伊織が買ったものではなく、どれもこれも、千歳からのプレゼント。
 改めて見てみると、伊織が自分で買ったものって、ほとんどないよね。
 ぐるりを見まわし、千歳はため息を吐く。
 本棚にも、新刊本の類は一切見当たらない。図書館で借りてきた本が、くるくると入れ替わっているだけ。昔は新品だったであろうフランス語の辞書も参考書も、使い倒してヨレヨレだ。
 中でも異彩を放っているのは、千切れかけのDELFの問題集。
 DELFとはDiplôme d'études en langue françaiseの略語である。直訳すれば、フランス語における教育の資格、といったところか。フランス国民教育省が認定した唯一の公式フランス語資格で、あちらの大学に入るには、この資格が必要になる。伊織は高校卒業後にフランス語を猛勉強して、数年前に、見事レベルB2の上級資格を取った。
 勉学以外には、驚くほど伊織はお金を使わない。
 ずっと、コツコツ貯めている。
 それこそ、カメリアの社員になるかならない頃からだ。すでに、それなりの金額に達しているはずである。
 ――いつ使うの? いまでしょ!
 最近、伊織の顔を見る度に、うっかり口を滑らせそうになる。
 だから、どうせ贈り物をするならば、伊織の背中を押せるような、なにかにしたいと思うのだけれど。
 プレゼントかぁ。
 千歳はうーんと唸った。
 なにも浮かばないので、とりあえずカメリアの店内をうろついてみたのだが。
「駄目だ、こりゃ」
 パッサージュ擬きを三往復しても、これといったものが見つからない。というか、どの商品にも、まったく食指が動かない。
「お客さんにはお勧めできるのになあ」
 自分が、となると難しい。
「どうしたの、うんうん唸って」
 声にふり返ると、火サスさんだった。
「あ、いらっしぃませ」
 店員らしくお迎えしてから、千歳は唸っていた理由を述べた。すると、火サスさんはきょとんとして、
「なんでもいいんじゃない?」
 驚くほどあっけらかんと答えた。
「自分がこれだと思うものを贈ればいいのよ。所詮、プレゼントなんて自己満足なんだから」
「自己満足……」
「だって、本人からのリクエストじゃなきゃ、本当に欲しい品かどうかなんてわからないわけだし」
「まあ、そうですが」
「それに、これ! っていうプレゼントを渡して、相手が自分の思惑通りにはまったら嬉しくない?」
 にこにこと宣う火サスさん。
 次いで、うふふ、と幸せそうに目を細めた。
「私の夫に関していえば、〈妻が夫のために選んだ〉というのが最重要ポイントだけどね。僕のために贈り物を探してくれた、君のその時間こそがプレゼントだ! なんていうんだから」
 なにかの歌にあったような気もするけれど。
 それはご馳走様ですと、千歳はわざとらしくにやついておいた。

 ふむふむ。
 自分が「これ」と思うもの、ね。
 じゃあ、プレゼントらしくなくてもいいのかなぁ。

 悩みつつ再び店内をうろついていると、新たにお客様が入店する気配。
「いらっしゃいませ――」
 ふり向いた千歳は、あっと声を上げた。
 もう一度、なんとか会えないかと思っていたお客様ご来店!
「こんにちは!」
 目を爛々と輝かせ、千歳はその人を出迎えるために走っていった。

 お客様が帰った後、千歳は休憩から戻ってきた仁にいった。
「叔父さん! 倉庫の奥のスペース空けといてね! 季節商品を入れるから」
「は? 季節商品?」
「そう。いまのうちに仕入れて、来年まで寝かせておくの」
 シーズンが終わったばかりのいまが狙い目なのよ、と千歳はにやり。
「腐るものじゃないし、流行に左右されてデザインが変わるわけでもない。だから、いまのうちに安く仕入れておいて、来年売るの。コスパ最高の小商いよ」
「小商い? って、誰の?」
「私のよ」
 怪訝な顔で聞く叔父に、と意味深な笑みで答える姪っ子。
「だって、自分のお小遣いで仕入れるんだもん」
「なにを仕入れるんや」
「内緒」
 千歳はにんまり笑って、長らく姪と社員に商売を丸投げだった店主に、それ以上の追及をさせなかった。

伍. 〈刑事〉は本当に存在したのか?

 
 遅ぇな。

 伊織は壁の鳩時計をイライラと見上げた。
 時計の短針は右側にあり、店の外には太陽光が降り注いでいる、十四時三十分。
 夕方にもなっていない時間だ。
 それでも。
 遅い。
 店主の仁が日本に戻ってきたので、受験勉強に専念しろと、周りの大人からいわれた千歳だ。
 けれど、せめて土曜日だけは、と抵抗し。結局、成績を学年で百番以内に保つという条件付きで、土曜日の午後だけ店に立つことを許された。
 あんなに粘りに粘って、条件まで呑んで手に入れた店番の権利なのに。
 先週も先々週も、土曜の午後は授業が終わると飛んで帰ってきて、嬉々としてレジに立っていた千歳なのに。
 今日は、二時を過ぎてもまだ帰ってこない。
 メッセージを送ってみたが、既読はつかず。
 電話を掛けてみても、呼び出し音が鳴るばかり。先日のように「電源が入っていないか、電波の届かない場所に……」ではないものの、繋がらないのは一緒である。
 どうする? 位置情報を確認するか?
 実は、先日の一件の後、こっそり千歳にGPSをつけた伊織だ。しかし、頻繁に覗き見て千歳の行動を監視するような真似はしないと、己に誓いながらつけたのだ。あくまでGPSは非常手段である。
 だが、まさにいまが使いどころではないのか。
 イライラとスマホを睨んでいると、緩んだ声がした。 
「こんにちはぁ」
 リリーである。
 店内を見まわしながら歩いてきたかと思えば、
「千歳ちゃんは?」
 こそりと伊織にたずねる。
「……まだだ」
 伊織は奥歯を噛みしめ苦い顔で答えたが、リリーにはただ低く応じただけに見えたらしい。ほないまのうちに、と伊織をレジ横の客のいない一角に引っ張っていった。
「この間の千歳ちゃんの未遂の件で、ちょっと気になることがあってやね」
 いいつつ、鞄から薄っぺらい冊子を出す。
 白と紺、水色の帯という国旗のような三色で、トリコロールに装幀された本だ。
 紺地に白抜き文字で『尾形亀之助詩集』と書いてある。
 リリーはパラパラと詩集をめくると、声に出して読んだ。

  もしも私が商をするとすれば
  午前中は下駄屋をやります
  そして
  美しい娘に卵形の下駄に赤い緒をたててやります

  夜は
  花や星で飾った恋文の夜店を出して
  恋をする美しい女に高く売りつけます

「知ってるやんな? あんたが懸想文売りを始めたきっかけになったっていう、夜店の話に出てくる詩や」
 詩集『色ガラスの街』中に収められている〈商に就いての答〉という詩の一節目と三節目である。
「問題は真ん中の午後の部分や」
 リリーが再び詩集に目を落とした。

  午後の甘ったるい退屈な時間を
  夕方まで化粧店を開きます
  そして
  ねんいりに美しい顔に化粧をしてやります
  うまいところにほくろを入れて 紅もさします

「私、この最後の〈ほくろ〉が気になってしゃあないねん」
「ほくろが、なんだってんだ」
「ほら、千歳ちゃんが懸想文の依頼を受けたっていう〈泣きボクロさん〉」
 最後の言葉を強調しつつ、窺うように伊織を見る。
「あれって、この詩から来ているのでは?」
 伊織は分かりやすく顔をしかめてやった。
「なんでだよ」
「蓮華から聞いたことあんねん。千歳ちゃんは、昔から伊織くんの真似っこが大好きやったって」
 蓮華の奴、要らぬことをベラベラと。
「そもそも、懸想文売りに関する冗談話の種本がこの詩やって教えてくれたんは、千歳ちゃんやねんし」
 おかしないやろ? 同じ詩で私も与太話を一席、って千歳ちゃんが考えてもな?
 リリーが畳み掛けてくる。
「そう仮定するとやね、千歳ちゃんの話に出てきたお客さんの顔にあった〈泣きボクロ〉は、千歳ちゃんの脚色かもしれへんちゅうことになって」
 だとすれば、
「〈刑事〉に見せられた女性の写真に泣きボクロが、っちゅう話も、同じく千歳ちゃんの脚色である可能性が出てきて」
 疑念がむくむくと湧いてくる。

 カメリアに来たという〈刑事〉は、本当に存在するのか?


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