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19.湯殿のリリ(2)

 「ここです」
 エミが案内してくれたのは、三乃宮へ向かう通路と反対側。
 説明がなくても、向こうから流れてくる生温かい空気で、そこが湯殿だと知れた。
 湯殿は、冗談みたいな巨大空間だった。
「こちらで服を脱いで、お入りください。体を拭く布はあちらに積んでありますので、随時お使いください。そのまま部屋にお持ち帰りになっても構いません」
 エミの説明を聞きつつ、杏奈はきょろきょろしてしまった。
 なにせ、広い。
 作り付けの白い棚がある明るい脱衣所は、三十人くらいが着替えても、余裕がありそうである。
「こちらが温泉で……」
 エミが奥の扉をガラガラと引き、中に向けて声を張った。
「リリ、いますかぁ?」
 エミの背中越しに杏奈も覗き込む。湯気の向こうに、紺色のブーロの人影が見えた。
 杏奈と同じ年頃の娘である。石の湯船の縁にしゃがみ込んで、湯に手を差し入れ、ちゃぷちゃぷと音を立てている。緩く三つ編みにした長い赤毛が、石の床をこするのも構わず、熱心に湯をかき混ぜている。
「あ、おりますね」
 エミがうなずき、再び声を張った。
「リリ! 四階の住人が増えたわよ!」
 ようやくエミの声が耳に届いたらしく、娘がふり返る。杏奈を見てつと目を見開く。それから、あんぐりと口を大きく開けた。
「彼女が、湯番のリリです。湯殿のことはリリに聞いてください」
 私はこれで、とエミが一礼して踵を返す。
 エミが立ち去ると、ペタペタという足音と共に、三つ編みの娘が近付いてきた。 
「も、もももしかして、新人さん……?」
「あ、はい。モリト=アンナといいます」
「お、おいくつの新人さん?」
「いくつ?」
「歳よ、歳」
「もうすぐ十九です」
「あたしより一つ下!」うわぁ、と娘が目を輝かせる。
「私はリリ。リリだよ。ここの湯殿番」
 職員かと思いきや、リリも囚人だという。
「ほら、ここにいると暇だからさ。頼んでやらせてもらってんの!」
 新たな情報だ。頼めば仕事を貰えるらしい。
「ここでは湯殿の管理と、女性の美容に関する全般を請け負ってる! あたし、元々化粧品屋の売り子をしてたから。体を磨き上げる手伝いや、全身マッサージ、化粧や髪結いまで、美容に関することならなんでもやるよ!」
 嬉しそうにいって、リリは杏奈の腕を引っ張った。
「来て! こっち!」
 連れていかれたのは、脱衣所の隣である。リリの仕事場だというその小部屋には、中央に簡易ベッドがおかれ、鏡台に化粧品らしき瓶が所狭しに並べられていた。化粧をしたことがない杏奈は、なにがなにやらさっぱりだが。
「アンナって、磨きがいがありそう」
 リリが楽しそうに瓶の一つを手に取る。 
 そして、笑顔のまま鏡に映った杏奈にたずねた。
「〈鏡の死〉まで、アンナはどれくらい余裕があんの?」
 昨日なに食べた? と聞かれたかと錯覚しそうな軽い調子で。
「私はねぇ、二年前に、病気で寝たきりの母さんを刺し殺そうとしている兄さんを止めに入って、揉み合っているうちに、逆に兄さんを刺しちゃって」
 七つ上の兄さんで、だから私の命はあと五年。
 あっけらかんと告げるリリ。
 口調は明るいが、双眸にはなんの感情も浮かんでない。表情だけ微笑みの形に作られた人形のように、無機質な瞳である。
 ガラス玉みたいなリリの瞳を見て、杏奈は悟った。
 リリの心は一度ばらばらに壊れたのだ。
 それを丁寧に拾い集めて、二年かけて修復し、明るいリリに作り直した。
 しかし、修復後のリリは、リリであってリリではない。お直しされた人形と同じで、外見は元通りでも、中身の詰め物が変わっている。
 お直しリリのまま、明るくあと五年……。
 残り半月の自分のほうが、幸せなのでは。
 そんな哀しい考えが杏奈の頭を過る。
「ねえ、それより」
 鏡越しにリリを見つめていると、リリが話題を変えた。
「女が二人になったってことは、囁きのチャンスよ!」
「ささやき?」
「聞いてない? 〈鏡の死〉について説明を受けたときに、教えてもらわなかった? まあ、人を殺していきなり四乃宮じゃあ、ショックで説明なんて耳を右から左だよね」
 あたしもそうだったよ、とリリが合点する。
「〈囁き〉っていうのは、宮殿からの歓迎の印。囚人が増えたときだけ配られるんだよ」
「〈囁き〉なんて変な名前」
 なにが配られるの? と杏奈が聞けば、
「知らない!」
 リリはあっけらかんと返した。
「〈囁き〉が配られるのは、囚人が増えたフロアのみだから。女の囚人はずっと一人だったんで、あたしは貰ったことないんだ」
 印だからバッチの類じゃない? と笑うリリに、バッチの名前に〈囁き〉は変じゃない? と杏奈が返したそのとき、カーン、カーンと鐘の音が聞こえてきた。
「あっ、夕飯の時間だ!」
 リリが嬉しそうに音のほうをふり仰ぐ。
「夕飯といえば……。リリはどこで食べているの? この四階に囚人用の食堂があったりする?」
 杏奈がたずねると、リリは「あるよ」といって、回廊のほうを指さした。
「一応、あっちにある。けど、いままでは部屋に持ってきてもらって一人で食べてた。でも、そうだよね。これからは食堂で一緒に食べようか」
「あ、今日の夕飯は宮殿長に呼ばれていて……」
 夕飯は三乃宮のロハンの部屋で食べようと約束している。それが、今日だけなのか、明日以降もなのかは確認しなかったが。
「そう? じゃあ、明日のお昼は一緒に食べよ」
 残念がるふうもなく返して、リリが小部屋を出ていく。
「半月もせずにいなくなるお仲間は、箱庭の上を横切る鳥みたいなもの、か……」
 リリの諦観に共感を覚えながら、杏奈も後に続いて部屋を出た。
 

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