怒りと許しの均衡

朝の空気はひんやりと冷たく、河川敷を覆う霧がまだ残っている。哲也は深く息を吸い込み、胸いっぱいに湿った空気を満たした。ジョギングを始めたのは数年前、仕事で疲れた頭をリセットするためだったが、今では考え事をするための時間になっていた。


足元の砂利が軽く音を立てるリズムが心地よい。そのリズムに身を委ねながら、昨日読んだ信書の一節を思い返す。


「訂正する力」――東浩紀が提唱したその概念は、哲也にとって目から鱗だった。単に自分の過ちを訂正することではない。怒り、謝罪、許しを適切に運用する力。それが、現代社会で混乱しがちな人間関係を円滑にする鍵だという。


哲也はふと自分の最近の行動を振り返った。先週、職場で部下に対して怒りを爆発させた場面が頭に浮かぶ。自分では正しいと思っていた指摘だったが、感情的になりすぎたことは後から冷静に考えれば明白だった。その後、謝る機会を作ろうとしたものの、なんとなくタイミングを逃してしまい、結局そのままになっている。


「怒る力と謝る力がセットでなければ、ただの支配欲の発露になるだけかもしれないな…」

哲也はそう自嘲気味に呟き、少しペースを上げた。


やがて、前方に人影が見えた。一人のランナーがこちらに向かって走ってくる。遠目でも分かるほどにその人のフォームは洗練されており、長い脚がリズミカルに地面を蹴り上げている。近づくにつれ、相手が男性か女性か判断がつかないことに気づく。短く刈られた髪、スリムな身体つきだが筋肉のラインは明確だ。そして、彼らしいとも彼女らしいとも言えない中性的な顔立ち。


すれ違う瞬間、そのランナーは軽く哲也に会釈をした。口元がわずかに動いたが、声は出さず「おはよう」と口の形で伝えてきた。それは声を使わずとも十分に挨拶として成り立つものだった。哲也は反射的に「おはようございます」と返したが、もう相手は背中を向けて遠ざかっていた。


哲也は足を止め、その背中をしばらく見送った。朝日の中で、その人の姿がどこか儚く見えた。


「怒らない力か…」

ふいにその言葉が心に浮かんだ。怒らないことは無関心ではなく、許す力と表裏一体であるという、昨日のエッセイの一節を思い出す。あのランナーもまた、自分なりにそのバランスを保ちながら生きているのだろうか。そう思うと、自分の未熟さが急に恥ずかしくなった。


哲也は再び走り出しながら、自問自答を始める。どうすれば怒りと謝罪、そして許しの力をバランスよく使うことができるのか。答えを見つけるには、自分自身がもっと周りの人と向き合い、行動しなければならない気がした。


霧が薄れ、空が明るさを増していく。哲也は今日の一日をどう過ごすか、少しだけ前向きに考えることができた。

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