湯煙の向こうに
湯気の中、視界がぼんやりとぼやけていく。久しぶりに女性と風呂に入ることになった。湯船に体を沈める前から心臓の鼓動がやけにうるさく、自分でもそれが緊張だとわかっていた。長い間こんな経験がなかったせいか、どう振る舞うべきか頭の中であれこれと考えたが、まとまらない。
彼女はすでに浴室に入っていた。大きなタオルを体に巻きつけ、髪を後ろに束ねている。その姿を一瞬見て、思わず息を飲んだ。湯気の中で彼女の肌が白く浮かび上がり、滴る水滴が光を受けて宝石のように輝いている。
「どうしたの?固まってないで、早く入ってくればいいのに。」彼女の軽い声が、湿った空気を振るわせる。彼女は湯船の縁に腰掛け、こちらに手招きをしていた。その仕草にはどこか余裕があって、久しぶりの再会を楽しんでいるようにも見える。
「いや、その、なんというか……」彼は言葉に詰まり、わずかに視線を泳がせた。自分の体の力が一気に抜けていくのを感じながら、タオルで隠したまま彼女に近づいた。温かい湯気が彼の頬に触れ、ますます気恥ずかしさが募る。
「気にしないでよ、昔はよく一緒に入ったじゃない。」彼女が笑うと、彼もまた昔の記憶がよみがえってくる。確かにそうだった。子供の頃、何度も一緒に風呂に入った。しかし、今はもう大人だ。二人の間に流れる時間は、その頃とは明らかに違う。
彼はようやく湯船の縁に腰を下ろし、彼女の隣に座った。足を湯の中に入れると、じわりとした温かさが足先から全身に広がっていく。彼女が先に湯に浸かったせいか、湯の表面には小さな泡が立っており、それがはじける音が微かに耳に届いた。
彼女はちらりとこちらを見て、微笑んだ。その表情があまりにも自然で、彼の緊張をほぐすように感じられた。そして、彼女がそっと彼の手を取り、湯の中に沈める。肌に触れるその感覚が、生々しく、そして温かかった。指先に伝わる彼女のぬくもりが、胸の奥を静かに揺さぶる。
「ほら、気持ちいいでしょう?」彼女の言葉に、彼はただ頷くことしかできなかった。言葉を発しようとすると、心の中にある想いが溢れそうになる。それを抑えようと、目を閉じ、湯のぬくもりに身を任せた。彼女の手がまだ自分の手を包み込んでいる。その事実が、どこか現実味を感じさせなかった。
しばらくの間、二人は言葉を交わすことなく、ただ湯煙の中で互いの存在を感じていた。湯船から立ち上る湯気が、まるで二人の間に漂う曖昧な感情を映し出しているようだった。彼はふと目を開け、彼女の顔を見つめる。彼女の横顔は穏やかで、かつて知っていた少女の面影がかすかに残っている。
「懐かしいね、こういうの。」彼女がぽつりと呟いた。その声はどこか遠くを見つめているようで、彼の心に柔らかく響いた。
「そうだな、懐かしい。」彼もまた、小さく答えた。湯船の水面がゆらりと揺れ、彼女の頬に反射した光が淡くきらめく。それを見つめながら、彼は心の奥底で少しずつ何かがほどけていくのを感じていた。
やがて、彼女は静かに立ち上がり、湯から出ようとした。彼は思わずその手を引き止める。「もう少し、ここにいないか?」そう問いかけると、彼女は一瞬驚いたように彼を見つめたが、やがて柔らかく微笑んだ。
「うん、そうだね。もう少しだけ。」そう言って、彼女は再び彼の隣に腰を下ろした。湯気の向こうに、彼女の笑顔が優しく浮かんでいた。
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