終わりの始まり

 山田一郎は、何もかも失ったと感じていた。長年勤めていた会社を突然解雇され、再就職のあてもない。彼女も、そんな彼に愛想を尽かして去っていった。友人たちも疎遠になり、残されたのは小さなアパートの一室と、鬱々とした日々だった。


 朝起きてもやることはなく、ただベッドの上で天井を見つめる毎日。夜になっても眠れず、寝るにしても空っぽの胃袋が気になり、何度も起きては冷蔵庫を覗く。しかしそこには、空っぽの冷蔵庫と同じように、未来の希望も空っぽだった。


 そんなある夜、一郎はいつものようにネットサーフィンをしていた。何か生きる意味を見つけたかったのだが、やがて何も期待せず、無意味な時間を過ごすことが日常になっていた。


 ふと、画面にある広告が目に留まった。大きく表示された文字が彼の心を捉えた。


「未経験歓迎!高収入!AV男優募集!」


 その瞬間、一郎は思わず笑ってしまった。まさか自分がこんな広告を真剣に見る日が来るとは。しかし、笑いが収まると、彼の心には不思議な感情が湧き上がってきた。


「これしかないのかもしれない」


 冗談ともつかぬ思いが、次第に現実味を帯び始めた。彼は、仕事も家族も恋人も失い、残されたものは自分自身しかない。社会に適応できず、自分を評価する場を失った今、誰かに必要とされる場所があるなら、それはもしかすると、この異質な世界かもしれないと感じ始めたのだ。



 数日後、一郎はインターネットの応募フォームに必要事項を入力し、送信した。恐怖や恥ずかしさよりも、未知の世界に対する期待感が強かった。翌日には事務所から返信が届き、面接の予約が決まった。渋谷の雑居ビルの一室で行われるという。


 面接の日、一郎は心の中にわずかな緊張と不安を抱えながら渋谷の街を歩いた。喧騒の中で自分が完全に浮いているような感覚を覚えた。かつては、この街のどこかで働いていたが、今はただの一人の「落伍者」に過ぎないという現実が彼の胸を重くした。


 雑居ビルに着くと、受付の女性に案内されて面接室に通された。部屋は意外にも落ち着いていて、簡素なデスクと椅子が並んでいるだけだった。担当者は年配の男性で、物腰は柔らかく、業界のイメージとは違っていた。


「山田さん、よろしくお願いします。リラックスして話しましょう」


 面接は思いのほかスムーズに進んだ。担当者はまず、一郎の過去について聞いた。なぜこの業界に興味を持ったのか、これまでの人生で何があったのか。そして、一郎がこの業界に入ることで何を得たいと思っているのかを。


「正直、もう何も失うものはないんです。これが最後のチャンスかもしれないと思って応募しました」


 一郎の言葉に、担当者は頷いた。


「多くの人がそう言いますよ。でも、AV男優というのはただ体を使う仕事ではありません。精神的にも強くなければ続けていけないんです。これからのあなたの決意が重要です」


 一郎は頷き、面接を終えた。その場で初撮影の日程が決まり、いよいよ彼の新しい人生が始まることとなった。



 撮影の日、彼は再び渋谷のスタジオに足を踏み入れた。スタッフたちが忙しそうに動き回り、機材の調整やセットの準備が進んでいた。監督は一郎に軽く説明をし、撮影の流れや彼の役割を伝えた。


「最初は緊張するかもしれませんが、リラックスして楽しんでください。無理なことはしなくて大丈夫です」


 一郎は深呼吸し、自分を落ち着かせようとした。自分がこれからやろうとしていることの重みが、一気にのしかかってくるような感覚があった。しかし、ここで引き返すわけにはいかない。彼は自分に言い聞かせ、撮影が始まるのを待った。


 撮影が進むにつれて、一郎は次第にカメラの前での自分を受け入れ始めた。初めての経験に戸惑いもあったが、監督や共演者たちのプロフェッショナルな態度に助けられ、少しずつリラックスしていった。


 不思議なことに、カメラの前に立つことで、彼はこれまで感じたことのない解放感を得た。自分のすべてをさらけ出し、評価されることのない世界でただ生きているという感覚が、彼にとって新鮮だった。



 一郎は次第にこの新しい生活に慣れていった。最初は単なる一時的な逃避の手段だと思っていたが、次第にこの世界での自分の居場所を見つけつつあった。仕事は確かに体力的にも精神的にも厳しい部分があったが、それでもこれまでの無気力な生活よりも、ずっと充実感を感じることができた。


 彼は少しずつだが、同じ業界の仲間たちとの人間関係を築き始め、孤独から解放されつつあった。新しい仕事は彼に、失っていた自己肯定感を取り戻させた。


 ある日、彼は仕事終わりに共演者たちと居酒屋で飲んでいた。彼らはみな、独自の背景や人生を抱えながら、この業界に身を置いていた。


「最初は、俺もここで何ができるのか分からなかった。でも、続けていくうちに自分がどういう人間かが見えてくるんだよ」


 先輩の言葉に、一郎は深く頷いた。



 居酒屋の薄暗い灯りの中で、先輩の話に耳を傾ける一郎は、少しずつ自分がこの世界に適応していっていることを実感していた。かつては日常のあらゆるものに疑問を抱き、自己嫌悪と不安に苛まれていた一郎だったが、この世界では「自分自身を晒すこと」が求められる。奇妙なことに、それが一郎にとっては居心地の良いものに感じ始めていたのだ。


「俺も最初は、ここが逃げ場だと思ってたよ。普通の社会で居場所が見つけられなくてさ。でも、この業界って不思議なもんで、気がつくと、なんか俺でもここで役に立ってるんじゃないかって思えるんだよね」


 その言葉に、一郎は共感を覚えた。自分が他の場所では「無価値」とされていたのに、ここでは確かに自分の存在が意味を持っている。体を張って働くことは肉体的には厳しいが、それ以上に、精神的な解放感があった。


「でもさ、AV男優って言うと、周りの目とか気にならないか?親とか、友達とかさ」


 一郎は素直な疑問をぶつけた。これまで、他の業界の人と違い、自分のやっている仕事を誇りに思えるかどうか、自信が持てなかった。


「そりゃ、気になることはあるよ。でも、結局は自分がどう思うかが大事なんだ。俺はこれで生活してるし、自分の人生に責任持ってる。それでいいんじゃないかって思うようになった」


 先輩の言葉には力があった。それは、どんな職業であっても、他人の評価よりも自分自身の納得が重要だということを示していた。彼らは、たとえその道が世間からは認められないものであっても、自らの選択に誇りを持って生きていた。


 一郎はその言葉を噛みしめながら、自分もまたその一部になりつつあることを感じた。彼の中で、「人生オワタ丸」というかつてのあだ名が次第に遠のいていくのを感じたのだ。これが「終わり」ではなく、「新しい始まり」なのかもしれないと。



 しかし、この世界には甘さはなかった。仕事が増えるにつれ、一郎は次第に疲れを感じるようになっていた。肉体的な疲労はもちろんのこと、精神的なプレッシャーも日に日に増していった。監督やスタッフ、共演者たちからの期待に応えなければならない。撮影現場では、常に自分のベストを発揮することが求められる。


 ある日、撮影中に一郎は突然体が動かなくなることを経験した。撮影が進むにつれて、体が硬直し、緊張と焦りで頭が真っ白になったのだ。監督が声をかけても、まるで自分が別の場所にいるような感覚に襲われた。


「山田君、大丈夫か?ちょっと休憩しよう」


 一郎はその場で撮影を中断し、スタジオの隅にあるソファに腰を下ろした。頭の中では「このままじゃダメだ」という焦燥感が渦巻いていたが、体がそれに応えられなかった。何かが自分を押しつぶしているような感覚があった。


 その後も何度か同じようなことが続いた。プレッシャーからくるストレス、長時間の撮影、そして自分の限界に挑み続ける日々が、一郎を徐々に蝕んでいった。


 彼は考えた。自分はこの世界で本当に生きていけるのだろうか。かつての無気力な日々とは違うものの、この世界もまた自分に重荷を課しているのではないかという不安が、胸の奥にこびりついて離れなかった。



 そんなある日、一郎は久しぶりに街を歩いていた。休みの日にふと、これまでとは違う風景を見たいと思い、家を出たのだ。彼は無意識に、かつて通っていた会社の近くまで足を運んでいた。


 ふと、懐かしい顔が目に入った。かつての同僚たちが、会社の近くのカフェで談笑しているのだ。その姿を見て、一郎の胸には複雑な感情が湧き上がってきた。彼らはまだあの世界で生きている。自分はそこから外れてしまった。
 しかし、果たしてそれは良いことなのか、悪いことなのか、自分でも分からなかった。


 彼はその場から立ち去り、公園のベンチに腰を下ろした。風が肌を撫で、木々の揺れる音が耳に心地よく響いた。彼はしばらく空を見上げていた。


「これでいいんだろうか……」


 つぶやくように言ったその言葉が、風に乗って消えていった。
 しかし、その問いに答えるものはなかった。



 そんな迷いの中で、一郎は思いがけない出会いをすることになる。ある日、撮影現場に新しい女性共演者がやってきた。彼女は一郎よりも少し年上で、業界経験が豊富だった。


 彼女の名前は玲子。強い意志と冷静な判断力を持ち、現場では誰もが彼女を尊敬していた。一郎は彼女に対して一種の憧れを抱くようになった。彼女はただ単にこの業界で生きているだけでなく、自分の仕事に誇りを持ち、毎日を充実させていた。


 玲子は、ふとした瞬間に一郎に声をかけた。


「山田君、最近ちょっと元気ないんじゃない?」


 その一言に、一郎はハッとした。自分では隠しているつもりだったが、玲子にはお見通しだったのだ。


「まあ、いろいろあってさ……」


 一郎が曖昧に答えると、玲子は優しく微笑んだ。


「この世界は厳しいけど、自分に正直に生きることが大事だよ。山田君も、自分を見失わないでね」


 彼女の言葉は一郎の胸に深く響いた。自分を見失わない――それが、この厳しい世界で生きていくための鍵なのかもしれない。一郎はその言葉を胸に刻みながら、もう一度自分を見つめ直す決意をした。



 それから数か月が過ぎた。玲子の言葉を胸に、一郎は少しずつ自分を取り戻していった。仕事に対するプレッシャーは依然としてあったが、それを乗り越えるための強さが自分の中にあることを感じられるようになった。


 ある日、一郎は撮影の後、再び玲子と話す機会があった。


「山田君、最近本当に成長したね。自分を見失わずに、しっかりと前を向いている感じがするよ」


 玲子のその言葉に、一郎は微笑んだ。


 撮影が終わり、現場から一郎はフラフラと控室へ戻った。疲れもあったが、何よりも下半身に違和感を感じていた。腰を落として椅子に座った瞬間、一郎は思わずつぶやいた。


「ちんぽが痛い…」


 声に出した自分の言葉に、苦笑いするしかなかった。身体を酷使するこの仕事で、痛みはつきものだと分かっていたが、それでも日々蓄積されていく疲労と痛みは、時に耐え難いものだった。


 控室の隅で、その言葉を聞いた玲子が顔をしかめながら近づいてきた。彼女はすぐに状況を察したようだった。


「無理しすぎると、本当にダメになるよ。少し休みを取ったほうがいいんじゃない?」


 一郎は軽く頷いたが、彼の心には焦りがあった。この業界で一度仕事を休むということは、その間に他の男優に仕事を奪われる可能性がある。どれだけ体が悲鳴を上げていようと、休むわけにはいかない――そんな思いが一郎の胸を支配していた。


 玲子は一郎の表情からその気持ちを読み取ったようで、少し強い口調で言った。


「体を壊したら、元も子もないんだから。これ、仕事だけじゃなくて自分の体にも投資する仕事なんだから、ちゃんとケアしなきゃだめだよ」


 玲子の言葉は厳しかったが、一郎を思いやる気持ちが込められていた。彼女自身も長年この業界で戦い続けてきたからこそ、言葉の重みが違った。


「そうだな……ありがとう、玲子さん」


 一郎は素直に感謝の言葉を口にしたが、その後もどこか不安が拭えなかった。明日からまた現場が待っている。それでも、今は少しでも休んで体を整えるしかない。


 控室を出ると、一郎は一人で歩きながら、ふと自分の未来について考えた。果たしてこの先、いつまで続けられるのだろうか。この仕事でのキャリアは短いのかもしれないが、それでも自分が選んだ道である以上、しっかりと歩んでいきたい。痛みを抱えながらも、一郎は少しずつ前に進んでいく覚悟を決めた。


 それが、彼の新しいスタートだった。


 翌日の撮影現場にて、一郎は再びカメラの前に立っていた。体の痛みは完全には引かず、疲労も溜まっていたが、彼の仕事への情熱は衰えていなかった。監督の合図でカメラが回り始めると、一郎は集中力を高め、役割を果たすべく動き出した。


 シーンは進行し、共演者の女性が演技に入る。声を抑えきれずに、彼女は「ン…アン!あんっ!あんっ!」と、シナリオに沿った台詞を発した。それは彼女の演技の一部であり、仕事の一環であったが、一郎はその声を聞きながら、自分もまたこの一瞬に全力を注ぎ込むしかないと感じた。


 彼の体は悲鳴を上げていたが、カメラの前でそれを見せるわけにはいかなかった。自分のプロとしての誇りを守るためにも、痛みを無視して演技を続けるしかない。一郎は息を整え、彼女に合わせてタイミングを取りながら、シーンを進めていった。


 しかし、体は限界に近づいていた。頭の片隅で「これ以上無理をすると本当に壊れてしまうかもしれない」という警告が鳴っていたが、今はそれを押し殺し、撮影を終えることだけを考えた。共演者の「あんっ!あんっ!」という声に合わせて、自分も呼吸を整え、動きを繰り返す。


 ようやく、監督の「カット!」という声が響いた。その瞬間、一郎は全身の力が抜け、床に倒れ込むように座り込んだのだった。

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