陵戸の子孫が語る陵墓の所在地

 引き続き,1966年発行の「特殊部落の研究」(菊池山哉)からの引用を進めます。「綏靖天皇の御陵も違います。これは神武天皇陵の続きで,山本の大尽といわれたところで,やはり丘の上です。神武,綏靖の御陵が田畝の卑地であるはずはありません。神武,綏靖二陵をはじめ4代5代いずれも山の上の清浄の地を選び,前方後円墳のような大古墳は崇神天皇以後のことです」。
 これは非常に興味深い一節で,崇神以前の天皇の実在と古墳の様式の変遷が具体的に語られています。綏靖天皇陵は現在,神武天皇陵のすぐ北の平地にありますが,"山本の大尽"はおそらく先掲の地図中の"山本"の箇所で,畝傍山の裾野,丸山宮址から見て北西に位置します。

綏靖天皇陵

 「何のために守戸を置いたのか実にくやしいことをいたしました。神武天皇といたしましても,御陵の守戸が世の中からつまはじきにされるということは,快く思し召してはいらっしゃらないでしょう。いわんや御陵を名も知れない小さな古塚にあてはめるなどは,言語道断,実に非礼のはなはだしいものではないでしょうか」と,無念さを吐露しています。住民による御陵の所在の指摘は一貫して具体的で,はるか125代前の御料地の守衛の任を,自ら進んで忠実に果たしてきた姿,その果てに身分制度にからめとられ抜け出せなくなった経緯を見ても,江戸時代にはびこった偽史のようなまやかしは感じられません。
 ただし守戸は,律令制における五色の賤の一つとして皇室の墓を守った陵戸とは別の職務となります。「日本書紀」持統天皇5年10月の条に「詔曰く,凡そ先皇の陵戸は5戸以上を設け,自余の王等の功ある者には3戸を設け,もし陵戸足らずば百姓をもって当て,その徭役を免じ,3年に一度替えよ」とあります。陵戸が足りない場合,近隣の百姓をこれに指定し守戸とよびました。
 「令集解」(9世紀半ば)の喪葬令には「凡そ先皇の陵は陵戸を置いて守らしめ,陵戸にあらずして守らしむ者は,10年に一度替えよ。兆域内に葬埋及耕牧樵採を得ず」とあります。最初は数年で交代した守戸ですが,しだいに世襲になった模様で,「延喜式」(10世紀前半)に記された陵戸の数はわずかとなりました。やがて御陵の守衛にあたる者のほとんどが守戸が占めることとなり,守戸自体も賤民視されるようになったものと思われます。
 陵戸の先細りの要因としては,中世にかけての武士の台頭と皇室の弱体化があげられ,しだいに現代の古墳の大半がそうであるように,墳丘が森林化していきました。盗掘や開墾で陵墓の荒廃が進むのもこの時代からです。果たして神武天皇陵においても"いわゆる直系"の陵戸は途絶したのでしょうか。
 令には一応「みな当式と婚を為す」と同族結婚が規定されていたものの,陵戸は良と賤の中間層であり(口分田を支給されていた),良との結婚も行われたであろうという学説も見受けられます。しだいに守戸に囲い込まれ賤として隔絶され,血脈の絶えていった集団,という様相ではありません。先述した古老の話にも「御陵に近いところの四つの家系が,日向からお供してきた直系の家来である」とあるように,洞村には神武以来の日向の血脈を継ぐ陵戸の子孫,それに守戸の子孫が,大正時代に至るまで混在していたと推測されます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?