Presidio Officer's Club

 教科書的には「治安維持法と同時に制定」された普通選挙法は、実は10日ほどおくれて可決成立した法律です。「サンフランシスコ平和条約と同時に結ばれた」と説明されることの多い日米安全保障条約ですが、これはどのくらい同時なのか、以前から気になっていました。
 サンフランシスコ湾の入り口に位置するプレシディオ(スペイン語で "要塞" の意)は、その戦略的価値から18世紀にスペインの、19世紀にはメキシコの駐屯地が置かれ、1848年にメキシコとの戦争に勝利したアメリカがカリフォルニアを領土とすると米軍の司令部が置かれ、以後主要な戦争のたびに重要な機能を担ってきました。ショーン・コネリー主演の映画「プレシディオの男たち」(1988年)の舞台として、その地名を耳にしたことのある人も多いかと思います。冷戦が終結すると、アメリカ政府は基地再編閉鎖法を制定して軍備縮小へ転じ、プレシディオの施設も閉鎖対象となり、1994年には国立公園局等に移管されました。このとき創設されたプレシディオ信託は、2013年までに財政的独立を達成できなかった場合、土地と建造物を競売で売却し公園を閉鎖すると定めました。
 プレシディオに数多く残されている歴史的価値の高い木造建築は、財政的独立を優先した結果、ジョージ・ルーカス財団のような高い家賃と改修費を支払えるテナントにのみ貸し出されることとなり、当初掲げられていた中低所得層の個人(ホームレスを含む)に住宅を提供するという目標はなし崩しとなりました。公園の一部をリース・開発する権利を得たジョージ・ルーカスは、制作会社のルーカス・フィルムをこの地に移転し、「レターマン・デジタル・アーツ・センター」を設立、その中庭に建造されたのが等身大のヨーダ像です。

Yoda Fountain

 1951年9月7日夜に吉田首相のサンフランシスコ平和条約受諾演説が終わり、午後11時近くに一行が議場を出ようとしたとき、外務省局長がGHQ外交局長に呼び止められ、翌日に安保条約を調印する旨伝えられました。8日午前に戦争記念歌劇場でサンフランシスコ平和条約の調印を終えた吉田茂首席全権は、同日夕方、3人の全権とともにサンフランシスコ北端のプレシディオへ向かいます。
 一連の動きが、ソ連に何らの計略をはかる隙も与えまいとする目的であったとすれば、調印式の終了直後に吉田首相をプレシディオへ移動させてもよかったのではないかと思われます。しかし、日本全権団が歌劇場から米軍護衛のもとプレシディオへ直接移動すれば、当然各国代表やマスコミの目にとまるでしょう。6時間の間隔があるということは吉田首相の宿であるスコット邸、あるいは随員の宿であるホテル(いずれも所在は確認できず)へいったん帰し、ほとぼりが冷めたところでプレシディオへ移動させたものと考えられます。アメリカの領土内でソ連が一体どのような謀略を成し得たかは想像しにくいところですが、米軍は強固な護衛をつけて全権団の車両を〜あるいは米軍車両そのものに乗車させて〜移動させたのではないでしょうか。
 外務官僚の間には、できれば日取りや土地をずらすことで、平和条約に基づいて両国が対等に交渉したうえで安保条約を結ぶ形式をとりたいという願望がありましたが、吉田首相はそれ以上にソ連の動きを警戒し、両条約の署名に日柄を置くことはリスクを招くと考え、即日調印に応じました。
 署名式会場の将校集会所へ向かった吉田茂首席全権と池田勇人ら3人の全権は、午後5時から日米安全保障条約の調印式に臨みました。平和条約と同日の約6時間後、約6km離れた軍事施設内での調印というところに、アメリカによる堅固な囲い込みの意図がうかがえます。吉田首相の回顧録には、「式といっても日米両国だけのことであるからすこぶる簡単で、まず米国代表アチソン国務長官が立って "この条約によって太平洋の安全保障の第一歩が踏み出される" と述べ、ついで私が "この条約は非武装、無防備の日本の安全を保障するものである" という趣旨のあいさつをした」とあります。
 今回、9月初頭のサンフランシスコを歩いてまず思ったのは、とにかく天気がよいということで、終日申し分ない快晴、最高気温はようやく20℃に届くくらいで、午後5時には肌寒くなってきますが、サマータイムのため午後7時すぎまで日は沈みません。ほとんど避暑地と言えるくらいの快適さで、これほど恵まれた風土のもとなぜ人々の生活があれほど荒んでいるのかと考えさせられます。米軍駐留の延長という、野党のみならず与党からも国民からも歓迎されないであろう条約の調印を控え、吉田首相の気持ちは天候とは裏腹に重く垂れ込めていたのではないでしょうか。アメリカ側の署名者がアチソン国務長官、ダレス特使に加え、民主・共和両党の上院議員の計4人だったのに対し、首相は「安保条約は不人気だ。これに署名するのは君らのためにならん。おれ一人で署名する」と言って調印式に臨んだということです。

 この将校集会所という施設がどこなのか、現存するのか、"assembly hall" のようなイメージを念頭に探したのですがどうも見当たりません。語感から体育館のような印象を受けたので、現在YMCAとなっている建物に足を運びましたが、よく考えてみると、同盟国となる相手の代表を招く場としてはふさわしくありません。帰国後に古地図を探すことを思いつきebayで発見、凡例を拡大して見ると、基地北部の①「Guest House,  Enlisted(下士官クラブ)」、ヨーダ像の北西側の②「Officer's Club(将校クラブ)」、同じく南西側の③「Guest House, Officer(=現Presidio Officer's Club[プレシディオ将校クラブ])」が候補として浮かび上がります。

 さらに検索するうちプレシディオ信託のHPに行き当たり、プレシディオ将校クラブに関して「陸軍幹部とその家族が集う場所として、1776年に最初に設立された公園最古、サンフランシスコでも2番目に古い建造物であり、"カリフォルニアの始まり" の証として保存されている」との説明が見つかりました。風格の面では③が調印式の場に違いありません。渡米時に発見できなかったことが悔やまれますが、ひとまず
streetviewでながめて満足することにしました。その平屋のシンプルな構造は上品なラウンジといった趣です(2014年よりミュージアムとして一般公開)。
 一方で、調印式が行われたのは「下士官用クラブハウスの小さな一室である」と記した文献も見受けられ、この場合、安保条約調印は想像以上にソ連の動きを警戒して行われた隠密行動・攪乱戦法だったことになります(現在①には体育館や倉庫といった風の建造物が並んでいますが、どれが当時から存続する建造物であるかはわかりません)。①・③のいずれで調印されたにしても、平和条約と安保条約の調印がアメリカにとって相互に不可欠な一連の外交戦略として、鉄壁な準備のもとで遂行されたことは確かです。

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