自分ノート(その7)

この世には様々な「対極性」が存在します。上下、左右、天地、硬軟等の対極性は物理的なものにも、精神的なものにも対応していますが、善悪、愛憎、真偽、美醜等はほぼ精神的な意味でしか使われません。これらの対極性は一つのものの裏表であって、どちらが良くてどちらが悪いというものではありません。つまり、どちらか一方だけでは存在し得ないものなのです。とはいえ、例えば愛憎の場合、愛だけあれば、憎しみは要らないのでは?と思われるかもしれませんが、それは「憎む」ということの本当の意味を理解していないからです。「憎む」とは、「憎む相手の十字架を背負う」ということなのです。相手の欠点を憎めば、相手の代わりに自分がその罪を引き受けることになるのですが、最も重要なのは、その「相手」が自分の場合です。大切な「自分の命」は、憎んでこそなんぼと言えるでしょう。
 
ルカ福音書14章
25大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」
 
ヨハネ福音書12章
25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
 
トマス福音書(55)
イエスが言った、「その父とその母を憎まない者は、わたしの弟子であることができないであろう。わたしのように、その兄弟とその姉妹を憎まない者、その十字架を負わない者は、わたしにふさわしくないであろう。」

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