トマス福音書を読む(その2)

聖書には、一見すると背理であるように思われる箇所があります。トマス福音書にもありますが、そのようなところこそが非常に重要なことを言っている場合が多いです。例えば、何かを「創造する」のはポジティブなことであり、「破壊する」のはネガティブなことであるというイメージが強いですが、「進歩」とは、今までとは違うものになるわけですから、以前のものはどうしても消え去る必要があるわけでして、そういう意味では、創造と破壊は表裏一体のものであると言えるでしょう。いずれにしても、破壊されたからといってすべて無くなるわけではなく、重要なのは、そこから何が創造されるかです。この破壊と創造のプロセスが変容(メタモルフォーゼ)と呼ばれるものです。我々も今の自分を後生大事にするのではなく、次の段階へと「脱皮」する必要があります。とはいえ、そう簡単に脱皮できれば、誰も苦労しないわけでして、「人間は努力している限り、救われる」というのが実際のところでしょう。痛み、苦しみ、悲しみなどの積極的な意味がそこにあると思われます。

トマスによる福音書
一〇:イエスが言った、「私は火をこの世に投じた。そして見よ、私はそれ(火)を、それ(この世)が燃えるまで守る」。
一六:イエスが言った、「人々はきっと、私がこの世に平和を投げ込むために来た、と思うだろう。そして彼らは、私が地上に分裂、火、剣、戦争を投げ込むために来たことを知らない。というのは、一家の内に五人いるだろうが、三人は二人に、二人は三人に、父は子に、子は父に、対立するであろうから。そして彼らは単独で立つだろう」。
四二:イエスが言った、「過ぎ去り行く者(旅行く者)となりなさい」。
五五:イエスが言った、「その父とその母を憎まない者は、私の弟子であることができないであろう。私のように、その兄弟とその姉妹を憎まない者、その十字架を負わない者は、私に相応しくないであろう」。
五八:イエスが言った、「苦しんだ者は、幸いである。彼は命を見出した」。
六九:イエスが言った、「心の中で迫害された人たちは、幸いである。彼らは、父を真実に知った人たちである。飢えている人たちは、幸いである。欲する者の腹は満たされるだろう」。
七〇:イエスが言った、「あなたがたがあなたがたの中にそれを生み出すならば、あなたがたが持っているものが、あなたがたを救うであろう。あなたがたがあなたがたの中にそれを持たないならば、あなたがたがあなたがたの中に持っていないものが、あなたがたを殺すであろう」。
七一:イエスが言った、「私はこの家を壊すだろう。そして、誰もそれを再び建てることができないだろう」。
八二:イエスが言った、「私に近い者は火に近い。そして、私から遠い者は王国から遠い」。
九七:イエスが言った、「父の王国は、粉を満たした壷を担い、ある遠い道を行く女のようなものだ。壷の耳(把手)が壊れた。粉が彼女の後ろ、道に流れ落ちた。だが、彼女はそれに気づかなかった。彼女は禍に気づかなかったのだ。彼女が家に着いた時、彼女は壷を下に置き、それが空であることを発見した」。
九八:イエスが言った、「父の王国は、高官を殺そうとする人のようなものである。彼は自分の家で刀を抜き、自分の腕がやり遂げうるかどうかを知るために、それを壁に突き刺した。それから、彼は高官を殺した」。
一〇一:イエスが言った:「私のようにその父と母を憎まない者は、私の弟子であることができないだろう。そして私のようにその父とその母を愛することのない者は、私の弟子であることができないだろう。なぜなら、私の母は偽りを与えた。しかし私の真実の母は私に命を与えた」。
一一〇:イエスが言った、「この世を見出し、裕福になった者は、この世を棄てるように」。
一一一:イエスが言った、「天は巻き上げられるだろう。そして地もまた、汝らの前で。そして、生ける者から生きる者は死を見ないであろう」。――イエスは言っていないか、「自己自身を見出す者に、この世は相応しくない」と。
一一三:彼の弟子たちが彼に言った、「どの日に王国は来るのでしょうか」。彼が言った、「それは、待ち望んでいるうちは来るものではない。『見よ、ここにある』、或いは、『見よ、あそこにある』などとも言えない。そうではなくて、父の王国は地上に拡がっている。そして、人々はそれを見ない」。

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