酒は悪魔の飲み物
酒を飲んで日頃の憂さ晴らしをする人は多いかと思います。しかし、「憂さ」とは何でしょうか?もし、一日中ウキウキしながら暮らしていければ、憂さ晴らしをする必要はないでしょう。つまり、憂さとは仕事や人間関係における何らかの「強制」であると思われます。この「強制」には2種類あって、法律や世間体のような「こうしなさい」という外からの強制と、「こうしなければ」という内からの強制です。前者を司るのがアーリマンという悪魔で、後者を司るのがルツィフェルという、どちらかというと内面的で知的な強制をする悪魔です。これらに対抗するのが第3の悪魔、阿修羅(アシュラ)でして、これはいわば「自由」を与える存在です。「自分」が自由になるのは素晴らしいことではないかと思われるかも知れませんが、この「自由」は勝手気ままにやるという、どちらかというと悪い意味の「自由」でして、「俺さま」と言っていいかと思います。そして、「俺さま」になる最も手っ取り早い方法が飲酒です。では、何故、神社にお神酒を供えたり、聖餐式でワインが出たりするのでしょうか?昔の人は今の人と違って、どちらかというと家族や親族、地域、国といった集団としての意識が主体で、「個としての自分」というものがあまり確立されていませんでした。したがって、全体から個への方向性が重要だったのですが、これが行き過ぎると、「万人の万人に対する闘争」(リヴァイアサン)になってしまいます。そうならないためには、やはり「強制」が必要なのでしょうか?そうではなく、今の我々に必要なのは「真の自由」です。これは阿修羅の対極にあるキリストの働きであって、シュタイナーはこれを「キリスト衝動」と言っています。分かり易く言うと、「お互いさま」ですね。アシュラとして「自分」という王国に君臨するか、キリストによって「自分」を保ちながらそれから解放されるか、どちらの「自由」を選びますか?ちなみに、小さな子供は皆、酒を飲まなくても「小さな王様」でなければなりません(^^;