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自分に遠慮しないで素直に生きる


精神科医の和田秀樹先生曰く、遠慮しなければ成り立たない関係を「いい関係」とは言えない

私は職業柄、多くの高齢者を見てきているので、親の遺産相続できょうだいが壮絶に争うケースや、親の介護のために自分の生活を犠牲にして、結果的にほかの人間関係を失うケースなどもよく見ています。
子どもが独立したあと、夫婦で顔をつき合わせる暮らしになり、相手にうんざりしながら我慢している人も少なくありません。
自分と本当に気が合う人。この人は心の支えだと感じられて、互いに愛情を持ち、一緒にいると心が安らぎ、何でも打ち明けられる人。それが自分にとって大事な人なのであって、親や子や配偶者だから大事というわけではないのです。
そこの峻別(しゅんべつ)をしっかり行い、自分にとって本当に大切な人間関係を見極める必要があると思います。
嫌われたくないからと相手に遠慮しているのであれば、その相手は、本当の意味で自分をわかってくれていると言えるでしょうか。
少なくとも、遠慮しなければ成り立たない関係なのであれば、夫婦であろうが、親友であろうが、その時点で「いい関係」とは言えないと思います。

額面どおり言葉を受け取ると怪我する人もいそうだが、一面ではそのとおりと思う。

遠慮しすぎる関係は、長続きしないし、踏み込みすぎるのを恐れてばかりいれば関係の深まりはない。

良い塩梅を見出すのが、長続きの秘訣だろう。ともあれ、気を遣うことも大事だ。遠慮を忘れて壊れた関係もあった。ここまで生きてくれば、無傷では済まないし手痛い失敗もあった。

「遠慮しない関係」、言い換えれば、月並みになるけれど、素直に自分を表せる関係というところか。

私も仕事柄、たくさんの夫婦関係を見てきた。長年連れ添い本当にリスペクトしあってる夫婦もあれば、危機を乗り越えて距離感を見出してる方たちもいた。夫が認知症になって夫婦の力関係が逆転して愛情を注ぎあえるようになった人たちも見た。

いろいろな話は見聞きしたけれども、ホントのホント、ひとの心の底はなかなか見えない。自分の心でも自分では気付けないこともある。100のカップルあれば夫婦百景。

関係に正解も不正解もないだろう。

冒頭の記事の肝は、関係のこともあるが、ある程度の年になったら人に迷惑をかけさえしなければ、自分に偽りなく生きたほうか幸せだよ、という教えが含まれていると思う。それは、関係の中に縛られて生きていることからのちょっと開放された自由区。

ほどほどゴーイング・マイ・ウェイを貫き、他者の視線を意識しない。けれども、そんな自分を認めてくれる他者がいたりするなんて。

それは、素敵! けれど、難しそ。

自由を求めるならば、ひとりもよい。関係のしがらみから解放されるにはいっそあっさりと生きるのも良いではないか。

考えてたら、実は一番のしがらみって自分自身なのかもという気分になった。

自分に染み付いた考えからは、なかなか離れられず自由になれない。自分からは簡単には逃れられない

自分という連続性の中にいるのだから、それも仕方ないけれど、もっとシンプルに直観を磨いて生きても良いのだろう。

自分にも遠慮せず、素直に。

その昔、ガラルダ神父が倫理学の講義でひとしきり語ったあとに決まって「素直に行こうよ、素直に」と大きな口を開けて、ニカッと笑ったのを思いだした。

あの顔を思い出すと、謙虚に人の話に耳を傾け、いいものはいいと受け入れ、だめなものはだめと離れる気持ちになれた。

Simple is Best!素朴な考えもいいんじゃない。


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