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『タクシー・ドライバー』トラヴィスのこと

特別展中尊寺金色堂を見に行き、平和を願いながらも滅ぼされてしまった藤原氏一族の栄華とその末路、そして900年後の展示の意味について、もやもや考えてた。

そしたらなんの連想か『タクシードライバー』を思い出したので書き留めておこう。

学生時代に『ミッドナイトエクスプレス』『レイジング・ブル』などと一緒にオールナイトで見たのが初見。それから何度か見ている。ロバート・デ・ニーロを『ディア・ハンター』で知りそれからの『タクシー・ドライバー』だった。ベトナム戦争の帰還兵トラヴィスが都会の生活に馴染めず、孤立した生活を送り、自分の正義を募らせて暴走していく話。殺戮シーンは、いま見ても悍ましく、当時も映画とは言えなんとも後味の悪さが残ったことを覚えてる。

オールナイトが終われば早朝、真っ暗闇の映画館を出ると朝の日差しが一段と眩しい。新宿の誰もいない通りを、カラスがゴミ箱を漁ってるのを横目で見ながら中野のアパートまで歩いて帰ったのを思い出す。

当時は、闇を闇と見る眼、光を光と見る眼しか持ち合わせていなかったのでトラヴィスのことを1ミリも自分に引き寄せて考えたことはなかった。

社会から疎外されたと感じた者の中で渦巻いていた(自分ルールの正義を梃子にした)エネルギー放出の末路に見えた。

それを容認して飲み込んでしまう社会も底が見えず恐ろしい。断絶と壁、落とし穴の下に奈落が見えるよう。

先日、30年ぶりくらいに再見したがトラヴィスの行動にやはりモヤッとした。けれど、そのモヤッと感は少し変化している。リアルにはお近づきになりたくないが、時代の空気を映し出すひとつの魂と思えば距離は縮む。

たまたま、歎異抄の解説本を読んでいたところ、次の説話が刺さった。

親鸞が弟子に「千人の人を殺せるか」と問う。※親鸞の時代の千人は、大量殺戮兵器のない時代で今の比較ではない。
「私の器では、それはできません」と言う。親鸞も「わしもできない」と言う。「しかし、縁があれば千人殺してしまうのが人間だ」と説く。

トラヴィスの縁は、ベトナム戦争の従軍で方向を曲げられた。

親鸞はさらにこう説く。「自分の意志や努力で良き状態を保っているのではない。殺してないのはお前が善人だからではない」

映画では激しく捻れていくさまをみせられたが、誰の中にも存在しているトラヴィス的なものを取り出して見せる親鸞の言葉が心の奥底の扉を開けようとする。世界は恐ろし。

これ以上は身体に悪いのでやめておこ。

世界で起こっている様々なニュースに触れていると『タクシー・ドライバー』が未だにリアルに響き、『ジョーカー』にオマージュを捧げられて引き継がれてるのも頷けなくはない話か。

おっと、トラヴィスに引っ張られてる。南無阿弥陀仏。


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