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ためちゃんと私の地球生活日記⑯

本日は創作を書きます。フィクションです。よかったら読んでください。

ずいぶん前、よくおかしなクイズをして遊んだ。
普通のクイズとかなぞなぞとはひと味違う。

「今から何の絵を送ったか当ててね」
「わかった」
「いくよー」

「送る」とは、何かの絵を頭の中で思い浮かべて、それを送りたい相手に「届いて」と想うことだ。使うのは「思う」という行為だけだ。

「えーとボール?」
「ちがう」
「まるいよね?」
「うん。まるい」
「…わかった、りんごだ」
「あたり!」

こんなやりとりができる。
繰り返せば繰り返すほど慣れてくる。

ただし、よほど慣れ親しんだり、よほど波長の合う相手で
そういうことを自然にやろうとするような、そういう者同士でないと
うまくいかない。

ある時ぜんぜん親しくない人とそういうやりとりが成立したことがあったけれど、その人は自分の敏感な体質に悩んでいた。高感度カメラみたいな人だった。その人は古本屋とかリサイクルショップに入れないという。本を開くとそれを読んでいた人の精神状態や、その時の感情が伝わってきてしまって苦しくなるからだという。しかも流入を止めることができないらしい。
これは気の毒だなと思う。

私はこの人のような感度はない。古本屋もリサイクルショップも「におい」は苦手だけれど、こういう苦しいことにはまったくならない。この人は地球上専用高感度センサーみたいなものを持っているんだろうなと思った。私にはないものだ。

そしてこの遊びはもうやっていない。
相手が近くにいなくなったということと、あまり面白いと感じなくなったからだ。たまに、急ぎの要件の時に電話に出てくれないなどの、連絡が取れない時に「気づいてくれ」と飛ばす程度のものだ。しかも、この遊びをした者同士でしかやらない。相手に負担がかかるからだ。

ほんとうは誰でもできることなんだけれど、人間に生まれて「体」が手に入ると、言葉を使うようになる。これが地球上での慣習。言葉があれば、そちらを使うのが自然なのです。

たまに
「虫の知らせ」とか「急に思い出す」とか「呼ばれてる気がした」とか
そういうことがあるんだけれど、それは誰もが「思いを伝える」ことができるんだという証拠だなと私は思うのです。






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