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自分がぶつけた足の小指が痛い

キッカケ
キットカットみたい。もとい。
私は子供の頃本はあまり読まなかった。本を読むようになったのは就職してからだ。
本を読むことがスキになったのは「本は自分のスキなように読んでいい。つまらなかったら途中でやめてもいい…」というようなことを本で読んだからだった。その本と出会うまでは「本からは何かを学ばなくてはならない。作者が何を伝えたいのか理解しなければならない。」とボンヤリと思っていたのだろう。ボンヤリしている割には真面目過ぎる。国語のテストでもあるまいし。ナゾの思い込みがなくなってからイッキに読書量が増えた。速読でも学んで片っ端から本を読みたい!と一瞬思ったがヨクヨク考えるとギャクにつまんな〜いと思ってそれは却下した。
たくさんの本に出会ううちにその作家さんの文章のリズム(私が感じる)とか選ぶ言葉の雰囲気(私が感じる)とかが感じられて、それが自分と合わないとなんとも気持ちが悪い。本だって一期一会だなぁ、それがいいのだ!

老害と親ガチャとかナンチャラとか
なんだか違和感アリアリの言葉なのね。それがナンナノかさっぱりわからなくて、不協和音を聞かされているようでまぁ気持ち悪いことだったのね。私はなのね。
はて?
人は年老いたら立派な人間にならなくてはならないとどこかで思っていないだろうか?
例えば職場でさ。自分の気にさわる発言をするのはなにも年配の人ばかりとは限らない。足を引っ張るように感じる行動をとるのも年配の人ばかりとは限らない。自分の隣にいる同僚だってさ、自分の気にさわる発言をするかもしれないし、足を引っ張るように感じる行動をするかもしれないし。年齢に関係はないのかもしれないし。
親ガチャも。親だったら立派でなければならない、立派であって欲しいという思い込みと期待かもなあ。私もそうだった。
自分と意見が違うのは敵、だと感じていた時期があった。敵か味方か。白か黒か。狭い世界に生きていたもんだ。自分と「意見が違う」のは「自分と意見が違う」のであって「敵」ではない。勝手に変換させてはいけない。
誰もが子供だった時代はあって親になったら突然立派な人に変身するわけじゃない。死んでお墓に入ったからといって自分のじいちゃんばあちゃんが神様に変身するわけじゃない。(神様がいるとかいないは横に置いといて)
ちなみに私の父はよく「仏ほっとけの家系だ」と言っていたので有難い、ホントにほっとくね。

そのまま
そのままってちゃんと実行しようとすると案外難しい。だいたい何かを省略したりつけ足したりしている。アレンジを加えてしまっていることが多い。

絵しりとり
テレビで絵しりとりをやっていて興味深かった。
私は最初の人の描いた絵は「くつした」だと思ったので次の人の絵は「たい」(魚)だと思ったが、それにしては魚の絵が小さかったので「?」だったが私は最初の人の絵が「くつした」だと思っているので「た」から始まる言葉しか思い浮かばなかった。2人目の人が描いた絵は「つり」だったようだ。つまりは最初の人の絵を2人目の人は「くつ」だと思ったんだね。実に面白かった。
文章にすると実に面白くない。上手く文章にできない!

ゲーム
あんまり幸せを感じられなかったあの頃。ケイタイのゲームにハマっていて。街づくりと農場ゲーム。なにが楽しかったって、誰に遠慮がいるものか!街も農場も自分の自由にできることが楽しくて、面白くて。それでも。ここにこの建物を置いたら人が通れないとか、川の側に干し草を置いたら湿っちゃうとか。ゲームの中ぐらいありえへん配置でもよくないか!と自分にツッコミを入れながらやっていた。
今はもうやっていない。

買い物
からしに和からし、洋からしがあって。それで思い出した。まだ私が小さかった頃、近くの本屋さんへ出かけた時のこと。男子大学生の先輩と後輩と思われる話し声が聞こえた。
「ビデオ借りて来い。和モノな和モノ。洋モノはダメだぞ。○○○声がワザとらしくてキライなんだ。」
会話の内容が理解できたのはそれから随分後のことだった。あーもう、どうでもいいことをよく覚えてるんだよ、私。買い物に行くと頭が回りだす回りだす。

イメージ
天国と地獄…で何をイメージする?
天国と地獄があるとかないとかの問題じゃなくて。

心…で何をイメージする?
だから心があるのかないとかの問題じゃなくて。
だから言葉って面白いなあ。
心はなんで心って文字になったんだろう〜ドキドキするのね。

何があったって〜なんとかなるでしょ〜
みんなが笑顔になる魔法〜
って買い物に行ったらお店で曲が流れてきて。
その曲が聞けたから今日は面白い日、良きかな良きかな〜

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