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春は遠き夢の果てに 逢谷絶勝(六)

     六

 梅林の東際、昔の山際のルートを、梅祭り会場方面へ向かって南下する。
 航空写真で見るとよく分かるのだが、梅林ぎりぎりのところまで土砂は削り取られている。小道の東側に土盛りがしてあって、歩行者から採集場は直接見えなくなってはいるものの、不自然さは隠しようもなく、場所によっては砂の小山や巨大な採集機が覗いていたりする。
 西側には、梅林が南北に細長く広がっている。小ぶりに剪定された梅樹は、しなやかな小枝を空に向かって伸ばし、可憐な白梅をいっぱいに咲かせている。
 女子たちは、楽しそうになにやら談笑しながら、少し前を歩いている。ちょっとガイド役を離れて、健吾は愛機であるペンタックスの一眼レフで、梅花を写真に収めてゆく。感度50の高密度フィルムで、中望遠レンズを装着し、搾りは開放気味にして。これも祖父が遺したものであり、もったいないので触っているうちに面白くなり、今ではすっかり趣味の一つになってしまった。
 世の中はほとんどデジタルに切り替わっているが、長らく自分のパソコンを持っていなかった健吾は、デジカメも持ったことがない。カメラ本体への愛着はもとより、フィルムを巻き上げ、パシャリとシャッターを落とす一連の感触は捨て難いものがあり、でき得ることなら長らく使ってやりたいと思う。
 花弁にもぐり込んだ蜜蜂を覗く、愛らしい優希の横顔にピントを合わせて、シャッターを切る。こちらに気付いて見せた天衣無縫な笑顔も激写。良い写真が撮れた時には、プリントする前に分かる。
「オッケー。なあ、ゆきちゃん」そっと声をひそめて健吾が言う。「こないだありがとうな。ほら、『きょうりゅうのほん』のこと」
「うん」
「あれって、じいちゃんが言うてはったん?」
「ん? うん」
「どんなじいちゃんやった? おれに似てる感じ?」
「にてへんで。じいちゃんやったし」
「ええっと、ひょろと背え高くて、ちょっとあほなこと考えてる感じのじいちゃん?」
「わからん」
「そっか。そやよな」
「きょうもきてはんで」
「えっ?!」
「だれがあほやねんいうてはる」
「なになに? 内緒話?」
 ムーミンに出てくるミイみたいな悪い眼をした美佳の言葉を尻目に、健吾は思わず周囲を見回してしまう。

 梅祭り会場でしばし休憩。見晴らしのきく場所ではないのだが、グラウンド一つ分くらいの広さいっぱいに梅樹が植えられている為、場所によっては見ごたえはある。
 好天に誘われて人出も多く、主にシルバー世代のグループが何組も訪れて、お弁当を広げたり記念撮影をしたり、それぞれの時間を過ごしている。
 ラッパ形のスピーカーから、“花咲く旅路”が流れている。カメラを構える両手を下ろして、健吾は思わず聴き入ってしまう。確か昭和後期の名曲だが、静かなメロディに心を合わせていると、ずっと以前から同じ旋律がこの場所で流れていたような、心が浮遊して時を超えた視点で景色を眺めているような、不思議な気分にさせられる。
 不意に、幻視に襲われる。
 ゆるやかな風に乗って、淡い紫色の靄が流れてくる。銀砂を振り撒いたように、大気そのものがきらきらと輝いている。左手には緑深い山容があり、広大な梅林の白い帯は、遥か後方まで続いている。
 霧に霞む満開の白梅の中で、学生服を着た少女が微笑んでいる。黒目勝ちの目元が美佳によく似ている。幻の中の“自分”は、少女に痛いくらいの恋慕を感じている……
「大丈夫? 夢でも見てるみたいだけど」
 呼びかけられた声音にふと現実に戻ると、美佳が少女と同じ場所で笑っている。今度は、自身の感情として彼女に対する愛情を感じる。戸惑いを隠すために、ふっと笑って首を軽く振る。

 坂道を下って、一段下の梅林を抜けて雑木林に入った辺りに、「三の口」と呼ばれる町民が山の神に祈りを捧げる場所がある。祠などはなく、三叉に分かれた樫の神木の根元に供え物を載せる木製の台があるだけだが、樹々に覆われたその三畳ほどのスペースは、しんと静かでぴりぴりと身が引き締まり、現界から半歩抜け出したような静謐さがあった。
 林を抜けると、再び梅林に出る。この辺りもなだらかな斜面になっていて、彼方の田園風景までよく見渡せる。起伏に富んだ地形の為、いろいろなアングルから梅観を楽しむことができ、筒のようなレンズを装着した素人カメラマンが、あちこちでカメラを構えている。
 健吾も、梅に見とれる女子三人の様子を、夢中になって写真に収めてゆく。「よかったら、撮りましょうか」声をかけてくれた団塊世代と思しき紳士の好意に甘えて、四人並んだポートレートを撮ってもらう。「ほう、まだ銀塩ですか」ちょっと嬉しそうに、紳士は無骨な機能美に溢れたペンタックスをしばらく撫でていた。


 遠近の眺めを楽しみながら、さらに山際の小道を進むと、左手に小さな天満宮が現れ、前方すぐ突き当たりにはお堂の屋根のとんがりが見えてくる。
「ほら、ここが龍泉寺。君もこないだお参りしてたらしいね」
「あ、そうそう、綺麗な阿弥陀さまがいらして」
「お昼はここでとらせてもらえるよう、お願いしたあるから」
 小道からお寺の敷地に入ってすぐ、見晴らしの良い小庭があり、鋳鉄製のテーブルと椅子が数個置かれている。この辺りは急な段差になっており、本堂に行くには細い階段を下りて回りこむ形になる。
 住職と阿弥陀さまに挨拶してから、段取り良く天満宮の駐車場にまわしてあったバンから、美佳さんお手製のお弁当を運ぶ。
「今日はね、あたしの卒業試験でもあるのよ」手際よく重箱や取り皿を並べながら、美佳が笑う。
「卒業試験? なんの?」
「お料理のよ。おばあちゃんはね、あたしのお料理の師匠でもあるの」
「卒業試験てなんやの。あんたもう、おばあちゃんよりうんとお料理上手いやないの。よう勉強して、わたしの知らんお料理もいっぱい知ってるでしょ」
「なにをおしゃいますやら。また詳しく話すけど、おばあちゃんの料理は、“人を癒す料理”なの。どれだけの人が救われたのか分からないくらい。一歩でも近づきたくって修行してるんだけど、なかなか遠いのよね」
「大袈裟大袈裟」
 準備整い、皆でテーブルにつく。運転手のゲンちゃんも誘ったが辞退したので、後で取り分けて持って行くことにする。
「じゃ、いくわね。じゃ~ん!」少しもったいつけてから、美佳が開いたお弁当は、オレンジ色を主としてほぼ暖色系でまとめられていた。
「をを~、めちゃオレンジやん。何これ? ニンジン?」
「そう、ニンジンづくし。この子たちねえ、あたしと優希で育てたのよ。ねえ、優希」
「ゆきちゃんもはたけてつだった!」
「そっか、そらよかったなあ。それにしてもめっちゃオレンジ濃いね」
「うん。そうねえ、まずこれからいってみてくれる? 細切りニンジンのグラッセ」と、中央にこんもり盛られた料理を指差す。パスタ状にカットされたニンジンは、つやつやのバターをまとってひときわ鮮やかなオレンジに輝いている。
「まず、静枝さんから」
「いいの、あなたから食べてみて」
「健吾さん、どうぞ」
「じゃ、遠慮なく!」二人に促されて、健吾は箸を伸ばす。「うん! 美味しい! このニンジン、味もめっちゃ濃いね!!」
「だしょ~っ! ほんと可愛い子たちなのよう」我が子を自慢するような口ぶりで、美佳が嬉しそうに笑う。「さ、食べて食べて!」
 かき揚げ、たらこ和え、酢の物といったニンジンづくしの他にも、味噌詰めレンコンの天ぷら、大根と卵の甘辛煮、豆の甘煮など、見栄えは美しくないが滋味のある盛りだくさんの料理が並んでいる。
「今まではね、ちょっとでもおばあちゃんに追いつこうって、習ったお料理必死で作ってみてたんだけど、でもぜんぜん敵わないことが分かって、じゃあもう自分の作りたいお料理、みんなに食べてもらいたいお料理作っちゃおうって思って」
 旺盛な食欲を見せる健吾は、レンコンをぽりぽりと咀嚼しながらうんうんと頷く。
「うわもう、この大根葉のおにぎり絶品!」
「ほとんど原価かかってないけどね」
「日本人ってなんてエコで素敵な民族やねんろ」
「ねえ、これ食べてみて。なんだと思う?」
「え? いや、鳥のから揚げやろ? うん、やっぱ鳥のから揚げやん」
「違うの。さあなんでしょう」
「だいずたんぱく~!」
「こらゆき! 言っちゃダメじゃん!」
 屈託なく笑い合う三人の様子を、静枝は眼を細めて眺めている。

 楽しいランチの時間はあっという間に過ぎ、三段の重箱も綺麗に空になる。テーブルの上を片した後、美佳は居住まいを正して、静枝に向き合う。
「ねえ、おばあちゃん、どうだったかな? 合格?」
 微笑みながらも、瞳は真剣に静枝を見詰めている。
「合格もなにも、あんたの料理は充分美味しいって、前から言うてるやない」
 美佳は、微かに眉をしかめ、唇をとがらす。
「でもね、今日の料理の感想ってことやったら……」暫し間をとって、静枝はにっこりと笑う。「最高に美味しかったし、最高に楽しい一時やったわ」
「よしゃ~!」と叫んで、美佳は健吾と優希と、ハイタッチを交わす。優希も嬉しそうに、きゃはははと声を上げて笑っている。
「なあ、美佳」少し瞳を潤ませて、静枝はしみじみとつぶやく。
「あんた、よかったですなあ」
「え? なにが?」
「美佳、今日のお料理、心からワクワクしながら作ったでしょ。一品一品から、それがひしひし伝わってきた。お料理食べてこんなに幸せな気持ちになったの、あたし初めてよ。美佳、今日はほんまに、ありがとう。ええ思いさしてもうて、おばあちゃん幸せよ」
 ぐっと言葉に詰まると、黒目がちの美しい瞳に、みるみる涙が溢れてくる。「ごめんなさい」とつぶやくと、美佳はハンカチで顔を押さえながら階段下のお堂の方へ駆けてゆく。
「あほやねえ。泣いてるとこくらい、みんなに見られてもええのにね。自分の弱いとこ、人に見せるのが恥ずかしいのよ」そう言って、自分もそっと瞳を拭う。
「ああ見えて、あの子もいろいろな事、抱えてるのよ」
「はい……」
「ちょっと早とちりで突っ走り気味なところはあるけど、ひたむきで、まっすぐで、優しくて、ほんまにええ子なの」
「はい」
「健吾さん、あの子のこと、よろしくお願い致しますね」
「はい……って、えっ?!」
「ふふ。ううん、なんでもないの」

 健吾が用意してきたポットいっぱいのコーヒーと松屋の芋ようかんでお茶にした後、観梅を再開するために席を立つ。もう陽はかなり西にかたむきかけている。
「次はいよいよ、天山なんですけれど、確かにルートは確保できました。でもね……」健吾は言葉を切って、東方の山並みを仰ぐ。
「もう、昔みたいな神韻縹渺とした風景は、望むべくもないんです。人の手が入らなくなって何十年も経ってまして、樹々も下草も伸び放題。登ってみても、きっと失望させてしまうと思うんですが、どうされますか?」自分の失態を告白するような面持ちで、健吾は言葉を搾り出す。
「行けるんでしょう?」静枝はほがらかに笑っている。「行けるなら、ぜひ行ってみたいの。健吾さん、どうかお願いね」


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