見出し画像

『殺戮の宴』 12

     10

 目が覚めてもしばらく、自意識は失われたままだった。心が漂白されたように、自分が誰なのかも、何をしていたのかも、ここは何処なのかも思い出せない。
 ただ呆然と、白い天井を見つめる。
 ぼんやりと、イメージが湧き上がる……。
 半裸の男性が、迫りくる男たちを舞うような美しさで撃退してゆく。飛び散る血液。怒りの形相。
 スポーツ・ジムから飛び出した女性とぶつかる。涙目で謝る顔の美しさ。ときめき。缶コーヒーの味。
 カマキリに似た小男のドヤ顔。イラッとする。かすかな友情。イラッとする。思いっ切り殴ってやった拳の感触。サンドウィッチの味。
 薄暗い山中。迫りくる蚊たちを、舞うような美しさで撃退してゆく。半裸の自分。飛び散る血液。秘儀。師父への想い。全身の痛痒さ。そして全裸の自分……
「はっ!!」
 ついに彼は自分を取り戻す。そして、取り戻したことを後悔するほどのディープな秘儀に没頭していたことも思い出してしまう。
 嫌な汗が噴出するのを覚えながら、周囲の様子を確認する。病院の大部屋らしく、カーテンで仕切られたベッドに横になっている。
 全身が気怠く、軽い頭痛がする。前開きの浴衣のようなブルーの衣を着せられており、両手が自由に動くことを確認し、拘束衣とかではなかったことに軽く安心する。
 どのような経緯で病院に搬入されたのか、まったく記憶にない。ナースコールを押すことも考えたが、事実を知ってしまうことがなんとはなしに恐ろしく、グズグズ考えている間にまたまどろみに落ちてしまう。
 全身を拭われる感触で目が覚める。「起きましたか?」感情のこもらないナースの呼びかけに、目をしばしばさせながら軽く頷く。
 下着をつけていないことに気づき、慌てて前を隠そうとするが、完璧に職業意識で作業をこなすナース女史は全く気にしていないようで、「やりかけなんでやっちゃいます」と淡々と汗を拭ってくれる。
 どのような状況で発見されたのか分からず、恐る恐る訊ねてみる。取扱い要注意のとんでもない変態男子として認識されているのかも知れないが、女史のクールな対応からは窺い知ることはできない。
 どうやら自分は、山中で不慮の事故に遭ったことになっているらしく、意識を喪失している所を、たまたま通りかかった山林整備の男性に発見され、病院に運び込まれたらしい。後でこっそり確認したが、警察病院でも精神的な病院でもなく、いたって普通の総合病院だった。
「ふ、ふふふ、服は……」冷や汗を書きながら、一番気になっていることを訊ねる。注意深く、ナース女子の反応を窺う。「ああ、服でしたら、ちゃんと脱がせて保管してありますから安心して下さい」こともなげに、女史はそう言ってみせる。
 それでも完全に警戒モードは解かず、他のナースの反応も確認するが、本当に単なる事故に遭った人扱いであり、変態認定はされていないようだった。
 あれからまる三日間ほど、意識を失っていたらしい。高熱を発し、地に落ちた際に頭も打っていたようで、一時は危険な状況だったらしい。
 その発熱が、夜間に裸身で寝ていたからなのか、蚊が媒介する菌によるものなのか、意識の同化した蚊を圧殺した影響なのかは分からない。しかし、最後の“あれ”は危険な賭けだったという、冷汗を伴う確信が、自分の中にある。危ないところだったのだ。
 頭部の検査などもあり、それからさらに二日ほど静養してから、無事退院とあいなった。
 退院の前日、自分を救出してくれたという初老の男性が、わざわざ見舞いに来てくれた。
 既に仕事はリタイアし、ボランティアで山林整備をしているという彼は、眼力のある目元に微かに笑みを浮かべ、泰然とパイプ椅子に腰掛けている。小柄でほっそりしているが、姿勢はよく、山歩きしているだけあって活力を感じ、救急車が入る場所まで自分を担ぎ上げてくれたことにも頷ける。ちぎったような眉と贅肉のない面長な貌つきは、どことなく師父を想わせる。
 男性と対峙してしばらくは、緊張を抑えるのに苦労した。
 ナースたちの話を総合すると、病院に運ばれた時には、着衣して、虫刺されの他は秘儀の痕跡もなかった。つまり、最初の発見者である彼が、意識不明の自分の身体を拭き清め、服を着せた上で救出してくれたことになる。
 そのあたりの詳しい状況をぜひ聞き出したいが、とても切り出せない。
 なにせ、あの直後の自分のあり様は、写メで撮られて実名入りでネットに晒されたら、それで人生終わってしまうほどの破壊力を秘めていたはずなのだ。中坊時代、不良女子たちに取り囲まれ、パンツをずらされPさんの愛らしい画像をクラスの裏掲示板に晒された苦悩が胸に蘇る。
 最悪、脅されて金銭要求される……。そんな慄きで冷汗まみれの彼だったが、師父の面影を持つ男性は、脅迫どことか恩着せがましい事も何一つ言わず、ただ微笑みを浮かべて悠然と腰掛けていた。言葉少なのその凛とした佇まいは、やはり師父を想わせた。
 結局、発見現場での顛末を聞き出すことはできなかった。男性のあまりの穏やかさに、もしかしたら、自分が心配していたほど破壊力のある状況ではなかったのかも知れない、意識を失う前に、自分で服くらいは着てたのかも知れないと、楽観的な期待を抱くようになる。
 しかし、男性は立ち去る間際、彼を振り返って静かにこう言った。
「若いの、ほどほどにしとくんだな」

 病院には不釣り合いなコンバットブーツの靴紐を、しっかりと結ぶ。数日お世話になった無機的な白いベッドを一瞥し、別れを告げる。
 受付で会計を済ませ、エントランスを潜って外に出る。
 久しぶりに感じる午後の陽光に軽く眼を細め、しばらくその暖かさをじっくり感じてから、駅へと通じる道をしっかりした足取りで歩き始める。
 長期間、浮世から隔絶していたからか、なんとなく生まれ変わったみたいな不思議な新鮮さを感じている。意識の喪失中、夢などは全く見た覚えがないのだが、深い所で変容が起こったような感覚がある。
 空は淡い水色で、西方に伸びるうろこ雲はすっかり秋の気配を感じさせる。降り注ぐ日差しも、ジリジリ肌を焼く不快な熱気は既にない。 
 もう秘儀はやらない……彼はぼんやり決意している。
 師父に似た男性の戒めも胸に刺さったが、それだけではない。
 彼は感じてしまったのだ。あの時……蚊と同化していたあの瞬間、奴らの想いを。これから産卵する子たちへ向ける、奴らの愛を。
 師父よ……敬愛するその人の貌を脳裏に描きながら、彼は歩いて行く。異端として生きることしかできない自分への哀切と、誇らしさを胸に抱きしめながら、彼は歩いて行く。
 プウ〜〜ゥン……不快な羽音を響かせて、一匹の蚊が彼に狙いを定める。白い滑らかな首筋を目掛けて、降下体制をとった刹那、なぜかその蚊は右に方向転換する。振動する二枚の羽に陽光をきらめかせて、新たな獲物を求め、蚊は飛び去って行く。

                       終劇



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?