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『殺戮の宴』 8

     6

 それが起こったのはほんの偶然だった。
 彼の“秘儀”もそろそろ終盤に差し掛かっている。今や特定の箇所ではなく、全身の皮膚からジンジンと押し寄せる痒みと痛みも、間断なく繰り広げられる死闘によって張りつめた神経も、耐えられる限界を越えようとしていた。
 あと三匹……全身に虫除けスプレーを散布したい衝動をこらえながら、彼は決意する。あと三匹殺ってから、今日の秘儀は終わりにする。
 一匹……額のちょうどサード・アイの部分で吸血していた奴を圧殺する。皮膚が厚い顔面においても、彼の繊細な感覚はしっかり奴らの動きを捉えている。
 二匹……右の踵の後部で叩殺。叩きにくい箇所ではあったが、ムチのようにしなる俊敏な右掌は決して逃さない。足裏特有のむず痒さが立ち上り、身体をくねらせて身悶えする。
 そして三匹目……
「ぅあっ……」
 最後の一匹になるはずのそいつは、彼の左乳首に降下した。おぞましさのあまり跳ね除けそうになるが、気力を振り絞って、自分のもっとも繊細な部分が異物に侵食される屈辱に耐える。
「あっ! うぁくっ……」
 奴の醜い口吻が、ちょうど肌から乳首へと変色する境目に突き刺さる。一瞬の鋭い痛みに次いで、他の部分とは比べ物にならないほど強く甘やかな痒みが、左胸から全身に拡がってゆく……

 彼の乳首は、ただのおっさんの乳首ではない。彼が手塩にかけて育てあげた、それ自体が作品とも言える特別な乳首だった。
 彼はもともと、自分の乳首にコンプレックスがあった。
 全体的にほんのり恥じらう様な薄桃色であり、縁の部分の鮮やかな薔薇色が、滲むように桃色に溶けてゆく。大きさも形象も付いている場所も、完璧な均衡を持ち、その部分だけ取り出せば北欧の美少女のそれの様な蠱惑的な美しさがあった。
 長ずるに従い、彼の乳首に対して、偏愛を示す者たちが増えてきた。風呂場やプールでガン見されることはしばしば。中には至近距離ににじり寄り熱い視線と吐息を投げかける者さえいた。どうやら男性愛者だけでなく、万人を惹き付けてしまう蠱惑的な美を、彼のヴァージン・ピンクの乳首は有している様だった。
 ある時、ついに彼に対してアタックを仕掛ける者が現れた。週イチの贅沢である銭湯でゆっくり湯浴みし、脱衣場へ戻った彼に、ロマンスグレーの長髪の紳士が声をかけた。
 紳士は、人体専門の写真家であると名乗った。ぜひ、君の美しい裸身を写真に撮らせて欲しい。君の中性的な魅力は、きっと世界にセンセーションを巻き起こせる……そう熱く語った。
 中性的? 彼は体を凝固させる。
 そんなウスバカゲロウみたいなものに俺はなりたくない。俺は……俺は、師父になりたいんだ。師父の様な荒々しい漢になりたいんだ!!
 返答を待つ紳士を押し除けて、彼は銭湯を飛び出す。濡れ湿った頭髪はそのままに、夜の街を駆けてゆく。
 もう嫌だ……こんなピンク色の乳首はもう沢山だ!!
 いつまでも清らかなヴァージン・ピンクなどを保っているから、いまだに俺は童貞なんだ。汚れたおっさんに好奇の目で見られて何になる? 俺はおっさんなんかに見られたくはない。女子に見られたいんだ! 女子たちから憧れの眼差しで見つめられたいんだ!!
 俺は、乳首を開発する!!……彼は魂に誓いを立てる。
 ピンク色の乳首はもう卒業だ。今まで誰も到達したことのない高みまで、俺の乳首を開発してみせる……

 彼はまず、自らの手で愛撫する所から始めた。自然素材の精油を丁寧に塗り込んだ上で、乳首だけではなく胸部全体を円を描く様に刺激し、皮膚感覚そのものと乳腺を開発してゆく。
 ある程度高まったところで、各種器具の使用に踏み切る。木綿のハンカチーフと洗濯バサミのコンビから、次第に素材を堅く粗く激しく変更してゆき、最後は荒縄ごしに強力クリップで乳首を挟み、その苦悶に数十分耐えた。
 文字通り血の滲む努力を、夜毎に彼は重ねた。「かさぶたができる毎に感度が増す」という巷説通りに、彼の乳首は感度と逞しさを飛躍的に高めていった。
 驚くべきことに、乳腺を刺激することで女性ホルモンが放出されたのか、彼の胸部はやんわりとした膨らみを帯びてきた。ふと興味を惹かれてネットで好みのブラを購入し、寄せて上げてを駆使して装着してみた所、全て分かっている自分でさえも興奮してしまうほどの美バストが完成してしまった。あまりの美麗さに、偽アカを作ってSNSで公開する衝動にかられたが、結局取り止めた。世界中の数万というイカ臭い童貞たちから、欲望の眼差しで見つめられることに耐えられなかったからだ。
 そんな過程において、対人パートナーの性感の高め方についても、自らのボディと深く対話することで、具体的な学びを深めていった。同時に映像やテキストからも多面的に情報を仕入れ、どこをどう刺激すれば相手を幸福なクライマックスへと導けるのか、いく通りもの手順を示すことができる。
 なぜ世の中の女たちが「抱いてください」と自分の前に列をなさないのか、意味が分からない。
 控え目に見ても、情念とテクニックを兼ね備えた最上の性技を提供できるはずであり、ジークンドーの精神的鍛錬を重ねた自分は、欲望のままに突っ走ってしまうこともない。
 爪を隠しすぎた能ある鷹……。
 自分の能力を十全に発揮できるその日まで、彼は密かに鋭い爪を研ぎ続ける……。

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