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『Sing a Simple Song』 12

     8

 ああ、また奄美だ……と、拓真はぼんやり思っている。
 賑わうカフェの店頭で、「ミキ」という奄美の伝統飲料が売られている。「試飲してみて」と、黒いエプロンをつけたお姉さんが手渡してくれた紙コップを反射的に受け取る。「キミ可愛いからサービスしといたから」と、お姉さんは愛嬌のある笑顔で笑っている。
 白くてトロッとしたその液体を飲んでみると、甘酒とヨーグルトを混ぜたような、ほんのり甘酸っぱい優しい味がした。母さんに頼んで、買ってもらおうかなと思う。
 井の頭公園へと続く道はいくつもあって、今は両側に店舗が並ぶ、賑やかな通りを歩いている。焼き鳥の良い香りが流れてくる飲み屋さんは、まだ明るい時間なのに人が一杯だし、赤い小屋根が可愛い雑貨屋さんでは、女子高生たちが楽しそうに買い物をしている。
 今日は公園のいつもの場所で、恭二さんの最後のライブがある。ちいちゃんもいなくなって、今までみたいな定期的はライブはお終いにすると、彼は連絡をくれた。ちいちゃんに捧げるつもりで歌うから、拓真にはぜひ来て欲しいと、告知ハガキに手書きで記されていた。
 何もかも、変わっていってしまう。大切なものほど、指先をすり抜けて空に消え去ってしまう。拓真は足を止めると、穏やかな春の空を見上げる。
「祷(いのり)くん」
 声に振り向くと、クラス委員の梨華がびっくりした顔で自分を見つめている。
「塾か何か?」
「うううん。公園にちょっと用事」
「そなんだ」
 言うべき言葉を探すように、梨華は斜め上の方向にちょっと視線をやる。
「車椅子の子のこと聞いた。残念だったね」
「うん」
「あたし、何度か見てたんだ、祷くんがあの子のことお迎えに行ってるの。いつもえらいなあって思ってた」
「おれは、べつに……」
「こないだ、なんかごめんね。あたしが声かけたせいで、あんなことになっちゃって……」
「そんな。梨華のせいじゃないよ」
「あいつら……絶対に許さない!!」そう言うと、右拳を左手の平にパチンと打ち付ける。ショートボブにした黒髪がふわりと揺れる。怒りを宿した黒い瞳がキラキラと輝く。
「あたし、ああいうのダメなのよ。なんにも悪くない子のこと、見た目とかだけでバカにする奴!! いつか目にモノ見せてくれる!! って、メラメラ怒りの炎が燃え上がっちゃうの!」
 拳をギリギリ握り締めて、本気で憤って見せる梨華を見て、拓真は思わずクスリと笑ってしまう。
「祷くんは大人よね。あたしはダメ。すぐカーっとなっちゃって、よくお母さんにたしなめられる」
「そこが梨華のいいとこだよ」
「そうかしら。そうだ、ねえ、これ……」そう言って、ゴソゴソと黄色いリュックをまさぐって取り出したのは、何やら黒っぽくて可愛い動物のキーホルダーだった。
「アマミノクロウサギって言うの。こないだデパートの物産展で奄美フェアやっててね、そう言えば祷くん、奄美って言ってたなあって思って。ほら、あいつらのことで迷惑かけちゃったじゃない? だから、おわびの意味も込めて、こういうの好きかなあと思って、買ってみたの」
「へえっ」梨華からキーホルダーを受け取って、しげしげと眺める。
 アマミノクロウサギ、パンフレットか何かで見たことがある。奄美大島の固有種であり、体毛は黒く、普通のウサギよりも小型で耳が短かい。
「学校で渡そうと思ったんだけど、みんなに変に思われちゃったらヤだし、なかなか機会がなくてね。あのっ、もし気に入らなかったり、迷惑だったら、ぜんぜんあたしこのまま持って帰るから……」
 いつもキビキビとしている梨華らしくなく、なぜか視線が泳いで、頬をほんのり赤く染めている。
「えっと、これ、おれがもらっても良いの?」
「うん。よかったらだけど……」
「ありがとう! 気に入った、すごく!」
「ほんと。よかった」
 そう言って、梨華はぱっと笑顔を弾けさせる。学校では見せたことのない梨華のそんな表情を、拓真はちょっと眩しく思う。

 手を振って梨華と別れて、公園へと続く緩やかな下り道を進む。
 清江おばさんから奄美の話しを聞いて以来、また奄美に関する情報を何度も目にするようになり、その度にガジュマルの樹に棲むという精霊、キジムナーに、手招きされているような気分になる。
 ふと気がつくといつも、写真で見たあの巨きなガジュマルを思い返していて、もう実際に行った場所みたいに、はっきりイメージを描くことができる。
 奄美大島。行きたい気持ちは日増しに高まる。
 それとなく母さんに頼んでみたけれど、「忙しい」の一言で会話を打ち切られてしまった。気長に頼み続けるか、一人で行ける年齢になるまで待つしかないのかなと思う。
 梨華にもらったクロウサギのキーホルダーをもう一度眺める。赤いベストを着たそいつは、門歯をむき出してニヤリと笑って、胸に銀色の時計を抱えている。

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