見出し画像

『Sing a Simple Song』 5

     3(承前)

 裏通りに面した正門から、養護学校に入って行く。勝手はよく分かっているので、昇降口でスリッパに履き替えてから、教室のある三階に向かう。
 階段の上り口にある掲示板に、生徒たちの絵が貼られていたのでしばらく眺める。ちいちゃんが描いたワンダーウーマン のひときわ鮮やかな赤が目に飛び込んでくる。勇ましく拳を突き上げたスーパーヒロインの姿が、もの静かなちいちゃんにそぐわなくてちょっと笑ってしまう。
 教室に入ると、顔見知りの女の先生が、ちいちゃんは友達と校庭にいると教えてくれた。そのまま帰れるように、ちいちゃんのピンクのバッグを受け取ると、元気よく教室を飛び出す。
「けんちゃん」
 校庭の植え込みの手前で、ぼんやりと爪を噛んでいる男の子に声をかける。
「ようタクマ。あいかわらずバカか」
 けんちゃんが軽く振り返って応える。言葉はひどいが悪気はないのは分かっている。『男はつらいよ』という映画で、主人公の寅さんが悪友に言う軽口らしい。
「うん、バカバカ。けんちゃんはあいかわらず天才?」
「おう。さえわたってる」
「さすがだね」
 言葉とはうらはらに、けんちゃんはぼんやりした顔で地面を見つめている。いつも白のライン入りの緑のジャージを着てるけど、何着か持ってるのかなと思う。
 中等部のけんちゃんは、拓真よりかなり背が高い。学年は違うのに、ちいちゃんのことが好きみたいで、あれこれ理由をつけては教室にやってくるらしい。
 けんちゃんの右奥に、車椅子に座ったちいちゃんがいて、花壇をじっと見つめている。お花が好きなちいちゃんは、何時間でも飽きずに眺めていられるようで、そんな時の彼女の透明な黒い瞳は、自分たちとは違うものを見てるんじゃないかって思えるほど、神秘的なきらめきを帯びている。
「ちいちゃん、むかえにきたよ」
 声をかけても、すぐには反応しない。ちいちゃんの視線の先にはモンキチョウがいて、青い小花の周囲をひらひらと舞っている。
「ち、い、ちゃん」
 何度か声をかけて、ようやく「うん」とうなずいてくれる。まだちょっと名残惜しそうなちいちゃんを気にしながら、車椅子に手をかけてUターンする。教室に帰るけんちゃんとは昇降口でお別れして、正門を出て、この日は玉川上水に向かうことにする。
 天気の良くない日以外はほとんど、ちいちゃんの希望で緑の中を散策してから帰ることになっている。
 人通りの多い三鷹駅周辺を抜けて、上水沿いの遊歩道に入ると、ほっと一息つける。盛りはすぎたものの、桜並木はまだまだ見頃で、お花見に訪れた人たちの姿もちらほら見える。風が立つと舞い落ちる薄紅の桜吹雪を受けながら、車椅子を押してゆっくりと歩いてゆく。
 所々に置かれているベンチに座って、休憩をとる。この場所からだと、道の左側に広がる井の頭公園の樹々も見渡せ、かなり深い森の中にいるような気分になれる。
 ちいちゃんは、道端に植えられた菜の花を見つめている。黄色い花弁がそのまま変化したような、数匹のモンキチョウが、花々の間を群れ飛んでいる。
 ちいちゃんがゆっくりと右手を差し出すと、まるで吸い寄せられるように、チョウたちが近づいて来て、白い指の周りを舞い踊るように浮遊する。
「すごいね……」
 思わず拓真はつぶやく。それは、意思を持っているとしか思えない可憐な舞いであり、チョウたちは母猫に再会した子猫のような熱意を込めて、次々と指に止まっては好意を示そうとする。
「ちいちゃん、さっきもチョウチョ見てたよね。お友達なの?」
「ん。お は な し し て た の」
「お話し? なんか言ってたの?」
「ん。な、た く ちゃ の お に い ちゃ ん」
 ちいちゃんは、モンキチョウを見ていた視線をそらして、まっすぐに拓真を見つめる。
「なに?」
「あ た し ね……」
「うん」
「も う、か え ら な あ か ん ね ん て」
「え? 帰るって?」なにげない言葉なのに、ひどく重要なことを告げられたように、なぜか胸にずしりと響いた。
「帰るって、どこに? お散歩やめて、すぐお家に帰りたいってこと?」
 ゆっくりと首を振ると、黒い瞳を優しく細めて、ちいちゃんは拓真を見つめている。
 この時のちいちゃんの笑顔を、拓真はこの後、何度も何度も思い返すことになる。
 公園に憩う人々のざわめきが伝わってくる。キラキラ降り落ちる木漏れ日が、路上に波のような模様をつくって揺れている。風に乗ってやってきた花々の香りが、優しく鼻をくすぐる。穏やかな春の陽気に咲きほこる花々に包まれて、妖精みたいな儚くも美しい微笑みを浮かべて、ちいちゃんは拓真を見つめていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?