見出し画像

春は遠き夢の果てに 逢谷絶勝(八)

     八

 なだらかな斜面を歩いてゆく。
 山の端に茂る樹木以外、視界のほとんどが梅樹で占められている。そしてその全てが、空に向かって伸ばした小枝に、満開の白梅を咲かせている。
「なにここ……すごい……」
 雲の中をたゆたうような陶然とした心地で、小道を進んでゆく。夕刻になってさらにはっきりしてきた、馥郁たる梅の放香を、先ほどからずっと感じている。
 天山を下って、車に乗って移動。市来の集落を抜けて、国道を渡って、さらに小道を進んで雑木林を潜った先に、この場所は在った。
 山の中腹に、小さな東屋が見えてくる。誰に言われるでもなく、一行は自然にその東屋に入ってゆく。
 眼の前は一面の梅の世界! 扇形に広がった山の斜面、麓から山上部まで全面に、梅樹が植えられている。人工物はほとんど目に入らず、山砂利採集の爪あともここからは見えない。四方のあちこちから、鶯や他の小鳥たちの鳴き声が響いてくる。梅の香りを乗せた穏やかな涼風が、火照った頬を心地良く撫でてゆく。
「ここねえ、盲点やったんですよ」手すりから身を乗り出すようにして、夢中で景色を眺める三人の少し後ろで、健吾は話している。
「国道を渡ったこっち側に、こんなに広大な梅林があるなんて、地元民でも知らない者の方が多いんです。うちのじいちゃんが持ってたこの『逢谷絶勝』っていう本にね、ありし日の大谷梅林の絵地図が載ってて、もしかしたらって思って来てみたら、まさに! って感じで」持参していた『逢谷絶勝』を取り出し、表紙を見詰める。
「ここの地名は、“逢う谷”って書いて“おおたに”っていいまして、もともと“大谷”も“逢谷”って書いてたそうです。今回、この梅林の持ち主にお話しを伺うことができて、ちょっとびっくりしたんですけれども、なんとこの東屋、うちのじいちゃんが建てよったらしいんですよ」そう言って、感慨深げに、東屋の内部を見渡す。
「ほら、店に飾ってた写真もここから撮られたもんやね。梅の季節には、朝から晩まで、一日中ここから梅を眺めてたって。じいちゃん、中之辺のにぎやかな方には、おれらもよう連れていったもうたんやけれども、ここには絶対誰も連れて来なかったって。」
 感極まったように、静枝はハンカチを取り出し、そっと瞳を抑えると、しばらく顔を上げられずにいた。
「これ、想像なんですけれど、じいちゃんも天山と大谷梅林に、すごく大切な想い出があったんやないかと思うんです。信吾に作らせた吟醸酒『白天梅』、できた時は嬉しそうにここに持ち込んで、一人で杯を傾けてたそうです。だからね、今日の行程は、もしかしたらじいちゃんがおれを導いてくれたんやないかって、そんな気がしてならないんです」
 言葉を無くしたように夢中で景色に見入る三人を残して、健吾はそっと東屋を出る。
 淡い白梅の雲に霞んでゆくような、儚い三人の後姿を眺めていると、色々な感情が尽きることなく溢れてくる。
 胸の、深い部分が揺れている。
 心の琴線に触れるという以上に、この愛すべき家族の在り方は、健吾の魂を深い所から揺さぶるものがあった。自分が泣いていることに気付き、右腕で不器用に涙を拭う。熱い涙は、心を縛り続けてきた冷たい孤独や悔恨を融解させるように、後から後から溢れてくる。
 いつの間にか漂いだした春靄が、咲き誇る白梅の姿を滲ませて、幻想感がいや増す。次第にオレンジ味を増してゆく大気は、それ自体が祝福の意図を持っているかのように、きらめきながら身体を押し包んでくる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?