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春は遠き夢の果てに 逢谷絶勝(九)

     九

 放心するように突っ立って、紅色の夕空を見るともなく見ている。大任を無事果たし終えた安堵と虚脱感を、どこか人事みたいに心の端っこで感じている。
 観梅を終えた一行は、店のバンに乗って、大谷酒造に戻ってきている。
 心が切り離されたような状態のまま、荷物を降ろしたり、美佳が家の者に挨拶する様子をぼんやり眺めていたことは、なんとなく覚えている。
 静枝が、事務所から持ち出したパイプ椅子に座って、会社の敷地内にある梅林を眺めている。天山を降りて以降、ほとんど口をきいていないが、きっと口を開くと心中を満たしている感動が霧散しそうな気持ちで居るんだろうと、全く同じ気分の健吾は察している。
 紅梅もある敷地内の梅林も、なかなか見ごたえがあり、これを目当てに遠くから酒を買いに来てくれる常連も居るほどだ。
「健吾さん」
 ふり向くと、確か直売所に行くと言っていた美佳が微笑んでいる。夕陽に染まる白い貌を前にすると、虚ろだった心に活き活きとした感情が舞い戻ってくる。
「今日は、本当にありがとう。心から感謝します」
 姿勢を正して、丁寧に一礼する。
「いやいや、おれも楽しかったし」
 きちんとした挨拶が苦手な健吾は、韜晦するような軽い口調で言葉を返す。
「ていうかさ、ほんまに車で送っていかんでええの? 遠慮せんでええんやで。ついでなんやから」もっと他に言いたい事はいくつもあるのに、こんな言葉しか出てこない自分がもどかしい。
「うん、いいの。何て言うか……上手く言えないんだけど、この三人の時間を、もっと長く味わっていたいのよ。決して遠慮してる訳じゃなくてね。今日はあんまり幸せすぎて、う~ん、何て言ったらいいんだろう……」
「いや、分かるよ。すごい分かる」
「うん。もし優希が寝ちゃっても、おばあちゃんも居るからタクシー呼んじゃえば良いし、夕飯ももう場面でって感じで、とにかく、今のこの幸せをしっかり味わってたいの」
「うんうん」
「おばあちゃんも、きっと疲れてるだろうけど、今日は酒盛りに付き合ってもらって、明日はゆっくり一日お休みして、明後日に優希と一緒に送って行くつもり。なんせ、おばあちゃん家、花城(はなしろ)でしょう? 気合入れないとなかなか行き来できないのよね」
「えっ?」電流に打たれたように、健吾はフリーズする。「君のおばあちゃん、花城なん?」
「そうよ。言ってなかったっけ? 市内からバスで1時間とかでしょう。不便だから、あたしも車買おうと思うんだけど、維持費とか考えたらなかなかねえ」
 まったく無関係だと思っていたいくつもの事柄が、鮮やかに一つのラインで繋がった。あまりの運命の数奇さに、健吾はほとんど戦慄していた。
「ん? どうかしたの?」
「それ……」ショックに痺れたような状態のまま、美佳が両脇の地面に置いている、一升瓶を指差す。左右各二本ずつの日本酒が、持ちやすいように紙と紐で梱包されている。
「えっ、ああっ、あたし、こちらのお酒のファンだし、ここまで来て買わない手はないなあって思って」
「お礼のつもりか知らんけど、一升瓶4本も買うて、その細い腕でぶら提げて持って帰るつもり?」
「えっと、あまり後先考えずに欲望にまかせて買っちゃったんだけど、正直どうしよっかなあって……」
「無料で配送したげるから、店のもんにそう言うてきぃ」
「えっと、良いのかしら? 正直助かる」
「ほんまに、いっぺんにそんなにぎょうさん買うて、あんまり常温で放置したら、味も変わってしまうんやからな」
 本気でいくと三日ももたない……と、正直な所を言いそうになるが、引かれると困るので黙って照れ笑いを浮かべながら再び店舗の方に向かう。
 一つ大きく深呼吸してから、健吾は夕景の中でひっそり端座する静枝の元へ向かう。胸裏にはいろいろな想いが渦巻いている。
「静枝さん」呼びかけてから、女神に拝跪する騎士のような格好で、静枝の正面に膝を落とす。
「おれの祖父、建造っていいます。もしかして、ご存知ですか?」
「ええ、よう存じております」
 万感の想いを込めて、静枝は健吾を見詰める。
「あなた、建造さんにほんとそっくり……。初めて逢うた時、本人が歳をとらないまま現れたんかと思いましたよ」
「気付いてはったんですね」
「ええ。美佳から話をうかがってすぐに」
 昼に拝した龍泉寺の阿弥陀如来の優しさに重ねながら、夕陽を宿してきらきらと輝く静枝の双眸を見ている。
「おれ、あなたに、渡さなければならないものがあるんです。もっと早く、お届けするべきやったのに、ついしり込みして、今になってしまって……」
「健吾さん」両手で健吾の右手を握り締めながら、静枝は言う。「わたし、感動してるの。全てがね、最高のタイミング! まるで神様が見計らったみたいに。遠いとこですけど、一度うちにいらっしゃいませんか? いつでも、歓迎致しますから」

             第一部『逢谷絶勝』 了


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