見出し画像

『Sing a Simple Song』 6

    4

 その日は朝から、嫌な胸騒ぎを感じていた。
 胸に鉛がつまったように息苦しく、体調もすぐれず、身体全体が重だるくて、起き出して顔を洗いにいくだけのことがひどく億劫だった。
 てっきり熱があると思ったのに、残念ながら平熱であり、気がのらないままグズグズと朝の準備をして、そんな様子を母さんにこっぴどく叱られて、余計に気分が沈んでしまった。
 泣いてしまいそうなくらい気持ちが不安定なことを自覚しながら、なんとか登校する。ずっとトロ火で炙られているような焦燥感が胸でうずいている。教室でヒナタが挨拶してくれたのに無視してしまう。女子たちが楽しそうに笑ってるだけなのに、自分がバカにされているような気がして思わず身をすくめる。
 こういう日に限って、先生に用事を言いつけられたり授業で当てられたりする。いつもならなんでもないことなのに、言葉がつかえて言い澱んでしまって、それを面白がって真似する貴生(たかお)たちの笑い声が悔しくて、恥ずかしさで涙が滲んでしまう。
 なるべく友達と関わらないように、休み時間は裏庭で石を蹴って過ごす。ちいちゃんがよくやってるように、大きな樹に触れて、じっと眺めてみたりする。
 なんとか一日の授業をやり過ごして終りの会が始まり、先生が告げる連絡事項を要点だけ聞いている。こんなに時間が長く感じるのは久しぶりだった。今日は水曜日で、ちいちゃんのお迎えに行かなければならない。この頃には荒れた気分も少し治まってきており、手早くランドセルに教科書類をつめ込んで、逃げるように教室を飛び出す。
「ねえ祷(いのり)くん。祷くんってば!」
 昇降口に至る手前の渡り廊下で、後ろから呼び止められる。
「もうっ、祷くん、走って帰っちゃうんだもん。追いつくの大変だったわよ」
 少し息を切らした梨華(リカ)が、腰に手を当てて怒ったような顔で拓真を見つめている。クラス委員で、女子のリーダー的存在であり、ボーイッシュでアイドルを思わせる容姿は、男子からもなかなか人気がある。
「ねえ、今日さ、葵(アオイ)の誕生会があるんだけど、祷くん来れないかな? さとちゃんが急用でいけなくなっちゃって、その代わりに。あ、プレゼントとかは気にしないで良いし、男子キミだけになるから、ヒナタと一緒に来てくれても良いんだけど……」
 葵はもの静かで目立たない女の子だが、拓真のことを好きだという噂を聞いたことがある。もしかしたら面倒見の良い梨華が、気を利かせて誘いに来たのかも知れない。
「ああ、ごめん。今日さ、ちいちゃんの……従姉妹の子のお迎えに行かなきゃならないんだ……」
「ああ、あの車椅子の子?」
「うん、そう。」
「そっか。じゃあしょうがないね。祷くん来てくれたら、ピアノ弾いてもらえるから助かったんだけどな」
「おれ、もうピアノは……」
「オカマちゃんピアノ〜っ?!」
 素っ頓狂な声が渡り廊下に響く。いつの間にか貴生グループの四人が、拓真たちを取り巻いてニヤニヤ笑いを浮かべている。
「オカマのタクちゃんは女の子にまじってピアノ弾いちゃうのね! さすが〜ん!」
「ヒョンヒョ〜ん!!」
「ちょっと! あんたたち、やめなさいよ!!」
 梨華が意思的な黒い瞳で、きっと貴生たちをにらみつける。
「ちょっと〜ん、やめなさいよ〜ん、うふ〜ん」
「リカちゃんこわ〜いっ」
 ヘラヘラと笑いながら、梨華の怒りをよってたかって茶化す。
 踵をかえして、黙って立ち去ろうとする。相手をするのは時間の無駄だと、自分に言い聞かせる。
「タクマはこれから、あのショーガイジの子とデートなんだもんな〜。オカマピアノ弾けなくてザンネンね〜!」
「ウヒョーん!」
「ラブラブ〜ん!!」
 思わず足が止まる。ドクンと、心臓が音を立てて脈打つ。
「ショーガイジの、なんてったっけ? ちんちゃんか。おちんちんのちんちゃん!」
「キャハハハ! ちんちゃん! ショーガイジのちんちゃん!!」
「あやまれ……」
 ギュッと拳を握りしめる。怒りのあまり、頭がガンガンして視野がスッと狭まる。
「ちいちゃんにあやまれ!!」
「なんであやまんなきゃいけないのう? タクマ、あのちんちゃんと結婚すんだろう? オカマちゃんとショーガイジのカップル、めっちゃおにあいじゃ〜ん!!」
「うわあああっ!!」
 薄ら笑いを貼り付けた貴生の生白い顔に殴りかかる。しかし、十分に予測していた貴生は、拓真が近づく前に「ひゃっ」っと奇声を上げて野ネズミみたいに廊下をすり抜けて校庭へと逃げてゆく。
「あやまれ……あやまれっ!!」
 必死で追いかけても、すばしっこいメンバーの誰一人として触れることすらできない。顔を真っ赤にして追いすがる自分の姿が可笑しくてたまらないようで、彼らはケタケタ笑いながら、「結婚! ラブラブ! 結婚! ラブラブ!」と声を合わせて囃し立てる。
「許さない……絶対に許さない!」
 騒ぎに気づいた生徒たちで、廊下に人だかりができ始めている。みんなの好奇の眼にさらされていることが恥ずかしくて、悔しくて、涙を滲ませながら貴生たちを追いかける。
 何かに足をとられて、身体ごと空中に投げ出される。誰かが後方から伸ばした足に引っかかったのだと分かる。
 手をつく間もなく、まともに額からコンクリの地面に落ちてしまう。ガズっと、嫌な音が響く。痛みのあまり、しばらく身動きもできない。ギュッと閉じた瞳の奥で、ギラギラと光が明滅している。
「♪パパパパ〜ん、パパパパ〜ん! オカマのタクマちゃん、結婚おめでとう〜っ!!」
 紙吹雪のつもりなのか、うずくまる拓真の上から砂利を振りかけると、貴生たち四人は急ぎもせずに、ヘラヘラ笑いながら下駄箱の方へ歩いてゆく。
 どす黒い怒りの塊が胸全体に嵌っている。少し身体を動かすだけでも、ズキリと全身に響くほどに額の傷は痛む。
「ぅうっ!!」
 思いっきり拳で地面を叩きつける。悔しくて、悲しくて、顔を歪めて下唇をギュッと噛みしめる。
「祷くん、大丈夫? うわっ、ひどい。頭、血が出てるよ。保健室行かないと……」
「ほっといて!!」
 心配してくれる梨華に、右手を振って拒否の気持ちを示す。少しふらつきながら立ち上がると、身体についた砂埃を払うこともせず、ランドセルを右手に下げてゆっくりと歩いてゆく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?