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『Sing a Simple Song』 7

     5

 額の傷は熱を持って痛み、頭部全体がジンジンとうずく。怒りと情けなさで、時折こぼれ落ちる涙を、右腕でごしごしと拭う。
 重い足を引きずりながら、もう無理だ、ずる休みしよう……そう何十回も思った。でも、今日は恭二さんのライブの日であり、楽しみにしているちいちゃんのことを考えると、休むわけにはいかない。
 母さんに頼んで行ってもらおうとも思った。しかし、帰宅すると母さんは留守であり、養護学校やおばさんに連絡してもらうこともできなかった。
 洗面所に行って、額の傷口を恐る恐る確認する。血は止まっているが、コブになっていて、触ってみると飛び上がるくらいの痛みが走った。砂埃と涙でまだらになったひどい顔をしていて、傷に気をつけながら水で洗い流す。
 グズグズ迷いながら家を出る。行きたくない気持ちはどんどん大きくなる。
 養護学校について、ちいちゃんの教室に入ると、担任の先生が、ちいちゃんの書いた詩が、都のコンクールで入賞したのだと、嬉しそうに伝えてきた。学校新聞にも大きく取り上げられたから、ぜひおばさんに見せてあげて欲しいと興奮気味に話す先生に、黙ってこくりと頷く。
 井の頭公園へと続く道を、車椅子を押してのろのろと歩いてゆく。
 けたたましい笑い声が響いて、ビクッと身をすくめるが、曲がり角から現れたのは貴生たちではなく、顔だけ知ってる別地区の上級生たちだった。
 浴びせられた言葉が、ぐるぐると頭の中を巡って消えない。忘れようと思うほどに、込められた悪意が強酸のように胸を侵食して深く食い込んでゆく。
 ショーガイジの子とデート……そんなふうに思われてるのか……。こうやって車椅子を押していることが、ひどく恥ずかしく思える。なんの落ち度もないちいちゃんと一緒にいることが、急にうとましく思えてしまう。
 人の感情に敏感なちいちゃんは、何か異変があったことを察しているようで、今日はずっと申し訳なさそうに身をすくめており、そんな態度が逆にいら立たしく感じてしまう。ああ、こんな用事さえなけれは、いっぱい漫画読んだりゲームしたり、好きなことできるのになあって、恨みがましい気持ちがどんどん溢れてくる。
 なんで自分ばっかり!
 貴生たちだけじゃない。何にも分かってくれない、先生も、クラスのみんなも、父さんも母さんも、おばさんも、そしてちいちゃんも、みんな大っ嫌いだ!! 自己憐憫はとどまることなくふくらんで、冷たい涙が両目に滲む。今日も葵の誕生会、行きたかったのに。ヒナタ誘って一緒に行きたかったのに……。
 公園に着くと、もう恭二さんのライブは始まっていて、車椅子を見やすい位置まで進めると、自分は一人になれるように人々から少し距離をとる。大好きな音楽も、今は雑音にしか響かない。つまらなさそうに、コンクリ製の手すりをガシガシと蹴る。蹴った小石が、小さな男の子に当たりそうになったけれど、謝らずに走って逃げる。
 ライブが終わったのを見計らって、みんなが集まっていた場所に近づいてゆく。ちいちゃんが、恭二さん初め、ファンの女の人たちにも囲まれて、楽しそうに談笑している様子を見て、自分だけ除け者にされたような気がして、しんと胸が冷たくなる。
「へえっ、ちいちゃんの詩が賞をとったのか。すげえじゃん! ちゃんと新聞にも載ってるんだな」恭二さんが話している。
「ちょっと読んでみて良いか? 

『わたしが そらを とべたら とっても うれしいなー と おもったのです。

そらを とんだら みんなに あえるのです。

そらを とんだら みんなといっしょに おはなししたり あそんだり ねたりします。

とりと いっしょに そらを とびたいのです。

わたしが とりと けっこん できたら いいのになー。

もしも とりと いっしょに ねたら いいのになー。

もしも とりと いっしょに おふろに はいったら うれしいのになー。

とりの 目を じっと みるのです。

こころの中で おはなしを します。

もしも とりと いっしょに そらをとべたら いいのになー。

みんなと いっしょに そらを とべたら いいのになー。』

 へえっ、良い詩じゃないか! 今度曲をつけてやるよ。みんなで歌おうぜ」そう言って、さっそく詩を口ずさみながらポロポロとギターを爪弾いて見せる。
 ちいちゃんは、嬉しそうに笑っている。ほんのり頬を桃色に染めて、嬉しそうに声を上げて笑っている。
「拓真、どうしたんだよ、こっちに来いよ」少し離れた場所でうつむいたまま突っ立っている拓真に受かって、恭二が朗らかに声をかける。
「あれ? お前、ひどい怪我してんじゃねえか。どうしたんだ? 見してみろよ」
「バカじゃないの……」
「えっ?」
「空なんか……空なんか、飛べるわけないじゃん。歩けもしないのに、空なんか飛べるわけないじゃん。鳥と結婚したいって? なに言ってんの? 意味わかんないんだけど。鳥となんか、結婚できるわけないじゃん。ほんとバカじゃないの?!」
「おい拓真、お前、何を……」
「だいたい、良いめいわくなんだよ。いつもいつも迎えに行かされてさあ。どれだけ大変だって思ってるんだよ! 自分は座ってるだけだから楽なんだろうけど、いつも車椅子押してるこっちがどれだけ大変か分かってる? 良いめいわくなんだよ!」
「拓真、やめろよ! お前今日ちょっとおかしいぞ」
 ちいちゃんの顔がくしゃっと歪む。黒い瞳にみるみる涙がたまって、ポロポロとこぼれ落ちる。
 うっうっ……と、かすかな泣き声が響く。それは、聞く者の胸に滲みるような痛みを感じさせる声音だった。
「みんな大っ嫌いだ!!」
 大声で叫ぶと、全力で駆け出す。恭二の良く通る声に呼び止められても、振り切るようにその場を離れてゆく。

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