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『Sing a Simple Song』 9

     6

 それからの数日間は心が凍ったようになっていた。周囲に張り巡らされたガラス越しに世界を見ているような、非現実感があった。
 お花畑みたいに沢山の花々に飾られた祭壇。白木の箱に横たわるちいちゃんは、白い花々に埋もれて、天使みたいに綺麗だった。
 病院の廊下で、おばさんと母さんが話していた。あの夜、腸捻転の発作が起こって救急車で病院に運ばれ、7時間におよぶ手術の末に、助けられなかった。青ざめたおばさんの顔。冷たい蛍光灯の光。
 京都から親戚がやってくる。黒い服。合間に食べるおにぎり。ひそめた声で交わされる会話。
 式の間も泣けなかった。ほとんどなにも感じなかった。すすり泣く誰かの悲しげな声音。暗鬱な読経の音色。お香と花の香り。眠っているみたいに綺麗なちいちゃんの顔。
 病院でも、斎場でも、おばさんは決して自分と視線を合わせようとはしなかった。きっと、怒ってるんだろうと思う。なにも悪くないちいちゃんにひどい言葉を浴びせた自分を、憎んでるんだと思う。
 みんなでマイクロバスに乗って、火葬場に向かう。車窓から眺める樹々の緑。空を貫く一条の飛行機雲。
 待ち時間、一人で待合室を抜け出して、裏手の林の方に行ってみる。ふと見上げると、一匹の黒いアゲハ蝶が、ひらひらと螺旋状に舞いながら、春霞にうっすらとけむる水色の空へと、高くたかく飛翔してゆく。
 ああ、ちいちゃんがお空に帰ってゆく……。
 そう思った瞬間、いくつかのイメージがフラッシュバックする。チョウチョを見つめていたちいちゃん、花をきれいだと笑っていたちいちゃん、恭二さんの歌に合わせて楽しそうに口ずさんでいたちいちゃん……。
 もう会えないんだ……。もう二度と、一緒に公園を散歩することはできないんだ……。
 爆発的な悲しみが胸の底から突き上げる。涙が後からあとから溢れてくる。悲しくて、悲しすぎて、立っていられなくて、膝をついて地面に突っ伏して、声を上げて泣きじゃくる。

 身を切るような罪悪感は日ごとに大きくなる。自分が傷つけたせいでちいちゃんが亡くなったのかも知れないという疑念は、ほとんど確信にまで育っている。
 最後に見たちいちゃんの泣き顔が、脳裏から離れない。キラキラ光る涙をいっぱいにたたえた瞳が、何かを訴えるように自分を見つめ続ける。「大っ嫌い!!」「最低!!」突き刺すような眼をしたみんなに囲まれ、非難される悪夢を見て、深夜に飛び起きる。
 どう償いをすれば良いのか分からないまま、葬儀から数日が過ぎる。抱えた罪のあまりの重さに、誰にも心根を話すことはできずにいる。足取りは重いまま、放課後、おばさんのアパートに向かう。嫌われても、憎まれても、おばさんにだけは本当のことを打ち明けておこうと、悲壮な決意を小さな胸に秘めている。
「ああ、たくちゃん、あんたわざわざ来てくれたんかいな。入って入って」
 想像していたよりも朗らかな笑顔で、清江おばさんは迎え入れてくれる。ちいちゃんを送って来る時には自分で鍵を開けて上がり込んでいたので、勝手はよく分かっている。狭い玄関に、ちいちゃんの白い靴がきちんと揃えて置いてあるのを見て、少し胸が痛む。
「うちも明日から仕事行くとこやったんや。ちょうど良かったわ」
 葬儀までの数日は、いつ倒れてもおかしくないくらい、蒼白な顔をしていた清江おばさんだが、だいぶ顔色も良くなって元気そうに見える。男まさりのショートカットで、ちょっとに似たなかなかの美人である。
 お茶の間の一角に祭壇が作られていて、白木の箱の前に引き伸ばされたちいちゃんの写真が飾られている。満開の桜をバックに、春の淡い光に包まれたちいちゃんは、慈母みたいな微笑みを浮かべている。
「それ、こないだあんたが撮ってくれた写真やねん。ええ写真やろ? 千津もな、お花の妖精みたいね……って、えらい気に入っとってん」
 つい数週間前なのに、ずいぶん昔の事のように感じる。こんなに早く別れの時が来るとは思いもせず、無邪気に笑っていられた自分が懐かしい。
「……ごめんなさい」
「えっ?」
「ぼくのせいなんだ……」
「何がやねんな」
「ちいちゃんが死んだのは、ぼくのせいなんだ……。ぼくが……ぼくがちいちゃんを殺したんだ」

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