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『殺戮の宴』 6

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 主任に引き連れられ、他のメンバーに挨拶して回る最中も、なぜか奴、前田の存在が気になっていた。いつか出逢うべきツインソウルでもあるまいに、互いの魂が共鳴するような引力を感じていたようだ。
 奴のデスクに近寄り、チラッと目と目が合った瞬間、電撃が走ったように、彼らは同時にある洞察を得た。
 こいつ、童貞!!
 一般的に童貞が知れるポイントとして、女性とのたどたどしい接し方、自己肯定感のなさ、世の中に対する嫉み、目の泳ぎ具合(逆にガン見の場合も)、現実に漂う童貞臭……などが挙げられるが、それらの傍証を経るまでもなく、彼らは瞬間的に互いの童貞を正しく見抜いた。
 童貞は童貞を識る。
 それは、孤独な魂同士が呼び合うような、ある種のサイキカルな交感だったのかも知れない。こじれにこじらせた童貞同士にしか解らないシグナル。彼は絶対に認めないだろうが、二人は出逢うべくして出逢ったツイン童貞であった。
 とはいえ、不思議と気が合うとか、瞬時に打ち解けるといったような事は一切なく、むしろ前田は激しく嫌な奴だった。
 態度が尊大なので、かなりの古参かと思いきや、彼より三ヶ月ほど先輩であるに過ぎない事が分かった。文化系にはありがちだが、三つも歳下なのに、呼び捨てだし、敬語を使うそぶりも見せない。「一日の長は全てに勝る」と言わんばかりに、全ての面で彼を見下す態度を見せた。
 無論、彼の方からも相応の友好度しか示してやらない。おそらく50キロに満たないと思われる小柄でガリガリの体躯を精一杯のけ反らせて、マウントを取ろうとしてくる前田の顔を、偉ぶる小学生を見るような醒めた眼で見返してやる。尖った顎と大ぶりな黒縁のメガネがカマキリを想わせ、ご丁寧にアニメで言う「アホ毛」が触覚みたいに常時二、三本立っており、密かに心中で「カマキリくん」と呼んでいる。どう贔屓目に見ても女子に好かれる要素は乏しく、自分が女子でもこいつにだけは絶対に抱かれたくないと思う。三十過ぎて童貞なのも至極当然であり、そういった意味では同情の余地もあるのかなと思う。
 そんなこんなで、前田とは互いに牽制しつつ、仕事上の友好関係を保ってきた。仕事はそこそこできるし、偉そうな物言いだけ我慢すれば、それ程ストレスなく付き合う事ができる。私語は引き継ぎの際に一言二言交わす程度であり、プライベートで会ったことも一度もない。
 そんな「カマキリくん」に、不覚にも深くシンパシーを覚えてしまった一件があった。
 あれは年末、全社員合同での忘年会。ホテルの広間を借り切っての豪勢なものであり、またクリスマス直前という未だ枯れていない男女にとっては気持ちも盛り上がるタイミングだった。
 もちろん自由参加ではあるのだが、人並みに出会いを求めてしまう彼も、精一杯のおしゃれをして完全アウェイであるホテルのエントランスを潜った。参加費無料でビュッフェを楽しめる機会はそうないしな……と無理に理由づけしつつ、学生時代に何度か参加したサークルの飲み会みたいなときめきを、久しぶりに感じていた。
 しかし、結果は惨憺たるものだった。
 分かってはいた。分かってはいたのだが、これほどまでに自分たちが恋愛カーストの下層に居ることを、残酷なくらいに思い知らされた。
 きらびやかな照明の下で、お馴染みの顔も見知らぬ顔も、みんな笑顔を浮かべて楽しげに会話しているが、彼が所属する制作部の周囲だけ光度が落ちたように暗鬱で、透明な障壁ごしにどこかの映像を見ているような疎外感があった。
 ゲーム制作部の面々は基本的にオタク気質でシャイであり、状況が分かっている先輩は初めから来ないし、例外的に気さくなタイプは他の部へ顔を出しに行くし、テーブルに残された数人は、黙々と料理を食べることに専念、しかもローストビーフとか北京ダックとか人気の料理はすぐになくなってしまうので、煮物とか酢の物とか、余り気味なメニューをこっそりよそって、背中を丸めながら口に運んだ。
 会は盛況のうちに終了し、皆が余韻に浸りながら帰り支度をする中、彼は逃げるようにホテルを後にした。グラスを重ねた割にはちっとも酔えなかったが、冷んやりした夜気が頬に心地良かった。
 示し合わせた訳ではないが、帰る方向が同じらしい前田も並んで歩いている。
 似合いもしないブカブカのスーツを着用して、放心したように無言で歩く前田の白っちゃけた横顔を、なんとなく眺める。
 どんな時でも俺様モードを崩さない奴が、さっきから一言も口をきかない。無理もない。忘年会の終了後、前田がひそかにーーと言っても傍目には丸分かりなのだがーー想いを寄せていた企画部の林さんが、絵にかいたようなイケメンとイルミネーション輝く夜の街に消えてゆく姿を見たのだ。ムリ目の恋である事は明白ではあったが、数語交わしただけでたわいも無く幸福に浸っていた前田の様子を見ているだけに、同情は禁じ得なかった。
「彼女ほしいよな……」
 不意に、前田がつぶやく。
 自分でも全く意図しない発言だったようで、ハッと我に返ってしばらく眼を泳がせた後、足に合わない革靴をポクポク鳴らして早足で歩いてゆく。
 ああ、こいつは、ブラザーなのだ……前田の、パーツだけ見ればつぶらな瞳を横から眺めながら、彼は天啓を受けたように眼を見張る。
 童貞を貫きながら師父への尊愛を体現する、気高きドラゴン・ロード。こいつとなら、共に歩めるかも知れない……。
 秘匿された世界へ誘(いざな)うには、段階を経る事が必要だ。本当にその男が秘儀を共有するに足る稟性(ひんせい)の持ち主なのか、注意深く見極めないとならない。
 まず彼は、『燃えよドラゴン』のDVDと師父の自叙伝を用意した。自叙伝はすでに絶版であり、古書店やネット・オークションなど方々を当たって、入手するのにいささか時間がかかってしまった。
 用意はしたものの、どう理由づけして奴に手渡すべきか……。恋人にラブレターを渡したい中坊のように逡巡を繰り返していた春も近い頃、なんと前田の方から「たまには飯でも食わんか」と誘いをかけてきた。
 前田は終始上機嫌で、いかに自分が会社に貢献しているか、全ての好調業績は自分のお陰だと言わんばかりに、メガネの奥の眼を細めて語りまくった。お前もまあなかなか良い仕事をしてるよと、三ヶ月だけ先輩の上から目線で、ついでのように彼のことも持ち上げてみせた。
 いささか辟易しながら会計を済ませ、もうこいつの話には絶対付き合わねえと固く決意していた彼に、ダメ押しするように前田はこう言ってみせた。
「つまり、風が巡ってきてる。時代がオレに追いついてきたんだ。これからはオレの黄金期だ。嘘だと思うか? たわ言を言ってると思うか?」
 薄い唇をクイっと歪めてニヒルな笑みを刻む前田のその頬を、殴り付けたい衝動を必死で押し殺す。しかしその後の発言は、たまった鬱屈を吹き飛ばすに十分な衝撃があった。
「彼女ができたんだ。しかも最高にキュートな彼女がな」

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