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春は遠き夢の果てに 逢谷絶勝(五)

     五

 3月18日金曜日。雲ひとつない蒼穹が頭上にひろがっている。
 先週まで長々と居座った寒気は一気に薄らぎ、眩しい陽光は、はっきりとやわらかい春の和やかさを伝えてくる。開花状況と天気予報を鑑みた上で日程は決めたものの、花神さまに嘉(よみ)されていると本気で思いたくなるほどに、心身ともに浮き立つようなときめきを感じる、まさに好日であった。
 山城大谷のひとつ京都寄り、青池駅前のロータリーに車を停めて、健吾は美佳さんご一行を待っている
 この駅のすぐ北側まで、砂利採集の跡地はひろがっていたのだが、植樹され、緑地公園が造られるなど、「表側」は次第に整備されつつある。新道の施工や大きな商業施設が誘致されるという話もちらほら聞こえ、静かに変貌してゆく故郷の行く末を、ぼんやりと想像してみる。きっとそれは、健吾が望む形ではないんだろうけれども、多くの人たちにとっては善き変化なのだろうと、思うことにする。
 暖房を入れなくても、陽光で車内はかなり暖かい。隣りの運転席では、本日ドライバーを務めてくれるゲンちゃんこと楢沢源二が、心地良さそうにうつらうつらしている。頭部の揺れに合わせて、童子みたいに無邪気な寝顔に、もじゃもじゃの蓬髪がかぶさる。大谷酒造には気さくな蔵人が多いが、とくに彼とは気が合い、ツレとしてよく時間を一緒に過ごしている。無口な性質で、ほとんど言葉を交わさないまま時間の経つことも多いが、不思議とそれが心地良く、遅くまで酒を酌み交わしたりしている。
 ふと見上げると、ここいらではほとんど見かけないトンビが、水色の空をバックに弧を描いている。タイミングを計ったように、少し離れた踏切りが鳴る音が響き、ご一行を乗せているはずのグリーンの車両が、定刻通りに近づいてくる。
 助手席を降りると、空に向かって大きく伸びをする。両手でほっぺたをぴしゃっと叩き、気合を入れる。
 ほどなく、改札に繋がる階段を、女子三人組が下りてくるのが見える。彼女達の周りだけほわっと光度が増しているような、不思議な華やかさを感じさせる一行だった。
「にいちゃん!」健吾を認めた優希が、てて~っと駆け寄ってくる。白いタイツとピンクのスカートの対比が愛らしい。
「をを、ゆきぼ~、今日も元気やなあ~。よしょっ!」両脇に手を入れて、高い高いの要領で持ち上げる。
「あれ? ちょっとおおきなったか?」
「へへん。わからん」
「そんなの、ほんの二週間ほどで、急におっきくなる訳ないじゃない」
 苦笑しながら、美佳がまぜかえす。
「分からんで。成長期かもしれんし」
「なんの成長期よ。二週間単位で数キロとか増えられたら怖いわよ」
「そうか。妖怪子泣きじじい並みか。……あ」
 自分を見つめるその女性(ひと)の視線に気付き、健吾はそっと優希を地面に下ろす。
 なんて優しい眼をする人なんだろう……。いたずらっ子を見守る母親のような、微かに笑みを含んだその眼差しには、自分の存在全て預けてしまいたくなるくらいの深い情愛が溢れている。その微笑は、心の奥底に染み渡って、かたくなな部分を解きほぐしてくれるようで、笑いたいような、泣きたいような、不思議なくらい大きな情動の塊がうごめくのを、健吾は胸の裡に感じていた。
「健吾さん、初めまして。田沼静枝と申します。今日はご案内、よろしくお願いいたしますね」
「あ……えっ……」っと、しどろもどろに挨拶を返しながら、上品にぺこりと一揖するその女性に向き合う。
 年齢は九十に近いということだが、少しも老人臭さはなく、幼児のような無邪気さと、落ち着いた思慮深さを同時に感じる。ほっそりした体型に、ベージュのウールのコート、シルバーグレーのスカートを着用し、首もとに巻いた淡いパープルのショールがおしゃれである。きらきらしい白髪を後ろでまとめ、色素は少し薄くなっているものの、感情を表してくるくるとよく動く黒目がちの瞳は、美佳によく似ているなと思う。
「健吾さん、こんなおばあちゃんのために、いろいろ骨折りしてくれはったみたいで、ほんまにありがとうね」
「いえいえ、ぼくも楽しましてもろてますんで。えと、車乗っていただくんですけど、その前にぷらっとこの辺歩きましょか」
 軽く深呼吸して、平静を装いつつ、一行を先導して歩道を歩く。いつのまに仲良くなったのか、ゲンちゃんと優希が笑いながらじゃれ合っている。
「健吾さん、あらためまして、今日はよろしくね」
 右横に追いついてきた美佳が、軽く身体を折って顔を覗き込む。今日の美佳さんはパープルのスカートに薄手の黒いダウンジャケットを合わせたスタイル。軽くウエーブをかけたロングの黒髪が、きびきびした歩調に合わせて肩の後ろで揺れている。
「おうっす。まかしといて」
「こないだねえ、大変だったのよ~。帰りの電車で優希が寝ちゃってね、駅からアパートまで、この子おぶって一升瓶と梅ジュースの瓶とお弁当箱ぶら下げて。地獄だったわ」
「うわあ、やっぱりかあ。なんかかえって悪かったね」
「いえいえ、その分後で、至福の一時を味あわせていただきましたんで」
 白い頬をほんのりピンクに染めて微笑む美佳を見ていると、先程とは別種の情動がこみ上げてきて、健吾は慌てて視線を逸らして青空を見上げる。
「えと、静枝さん……ってお呼びしてよろしいですかね。観梅のルート、いくつか考えられるんですけど、どういう感じで回られたかって、覚えてらっしゃいますか?」
「そうやねえ……。もうはっきりは覚えてへんけど、汽車で来てね、駅前から乗合バス乗って、降りたらもう一面の梅畑でね。そこから一日中梅林の中を歩いて、最後に天山に登ったんやと思う。そうそう、木津川の方に沈んでゆくお陽さん、よう見えましたもん」
「それは、地元の者の案内で?」
「そうです。大谷に知り合いが居て、その方に」
「当時の梅林の広がりを考慮して、ぼくなりにあの頃一番旅情が感じられそうやったルートを想像してみたんですけれど、それを追う形で行かせてもらってよろしいですか?」
「ええ、もう、健吾さんにおまかせいたします」
「今日、大谷やなくって、青池の方に来てもらったんはね、昭和の初期までは、ここが宿場町として賑わってたからなんです。当時の紀行文も、青池の宿から始まってるものが多くて。もうかなり変わってるでしょうけれど、ここいらの風景、見覚えありませんか?」
「そやねえ……、あ、松屋さん!」
 駅前のコンコースから旧街道に至ってすぐ、かなり時代を経た木造のがっしりとした店構えが見える。
「はい、松屋! 覚えてはります?」
「芋ようかん!」
「芋ようかんまだありますよ! 美味しいですよね」
「そうやそうや、ここやわ。ここやったんやねえ……」感慨深げに、静枝は街道の右から左を見渡す。
「あの頃はね、ぎょうさんの商家や宿屋が軒を連ねてて、すごく賑わってたの。もうどこの記憶かはっきりせえへんかったんやけど、ここやったんやね。ちょうどほら、太平堂さんのお店がずら~っと一列に並んだ感じかしら」
 右の突き当たりに見えている大手スーパーの名前を出して、静枝が笑う。
 現在の道路沿いは、ほとんど真新しい民家になっているが、道案内の石柱、朽ちかけた木造家屋、アールデコな曲線が愛らしい旧郵便局など、往時を偲ばせるものも所々に残っている。
「不思議やねえ」眼を細めながら、静枝がそっとつぶやく。「もう消えてなくなったと思ってたものが、ふとしたきっかけで、鮮やかに甦ってくる。もしかしたら、わたしの心の中にも、この街道にも、一瞬一瞬の出来事が、はっきり刻まれてるのかも知れへんね。ここを通った、沢山の人たちの顔が、透けて見える気がする。何十年っていう年月も、早送りしたらあっという間。人の一生って、ほんとにほんとに夢みたい」

 松屋で芋ようかんを買い込んだ後、ゲンちゃん運転するところの車に乗って移動すること数分。家並を抜けて、旧国鉄の線路を渡って、道路が左に分岐している部分で白塗りのバンは停車する。よく見るとそこは込み入った三叉路になっていて、民家の間を抜けると、左右に分かれる車道の真ん中から伸びる、やっと車一台通れるほどの小道があるのが分かる。
「ここが『二本松』っていいまして、大谷梅林の北からの入り口になるんですよ。昔は本当に二本の松があったらしいんですけど、昭和の“ジェーン台風”で折れてしまって、今は名前と石碑しか残ってません」
 一行が車から降りるのに手を貸しながら、よく通る声で健吾がガイドする。
「戦に負けた高倉の以仁王が、この松に冑を掛けて逃げ延びたんですね」
「ご存知でしたか?!」
「おっきな二本の松の木、まだありましたよ。ほんまにおじいちゃんとおばあちゃんみたいな、ごつごつした老木。すぐ横に茶店も出ててね、よう賑おうてました」
 ちょうど道の分岐点に、風化してほとんど字が読めなくなっている、小さな石碑がある。今は何もないその空間を愛しそうに見上げながら、静枝がつぶやく。
「実際にご覧になってたんですね……」
「はい、おかげ様ではっきり思い出しました。もうこっから先は、一面の花の世界でね。わくわくしながら二本の松を見上げてたん、よう覚えてます。」
「おそらくその頃は、この東側は緑深いお山に囲まれてて、それは綺麗な光景が展開されたと思うんですけれど、今はもう山ごと削られてしまってまして」左に分岐した無味乾燥な舗装道路を見遣りながら、健吾が言う。「この道、ぼくらは“トラック街道”言うてて、危ないから近づくなって、ずっと言われて育ちました」
 見ている間にも、数台のトラックが轟音を立てて通り過ぎてゆく。砂埃でしらっ茶けた道路と立ち枯れた雑草ばかりが目立つ、その先の光景を、愛しいものにでも対するようなやわらかい静謐な面持ちで、静枝はしばらく見つめている。

 三叉路の真ん中の小道を、一行は歩いてゆく。一面、とはいかないまでも、点在する民家の間は今も梅樹が残り、在りし日の梅林の様子を伺うことができる。
「この右側のまだ花咲いてない樹はね、桃の樹なんですよ。もうちょっとしたら、ほんまに鮮やかな桃色の花咲かせてくれます。梅とともに、桃の花も結構有名やったみたいですね」
 つるつるの木肌が愛らしい桃の畑は、旧街道を越えてさらに西の方まで広がっているのが見える。
「桃、採れるの?」
「採れるよ~。美味しいで」
「ゆきちゃん、ももすき!」
「ほんまか。ほんなら実が大きなったら、教えたげるから食べにおいで。農家に知り合いいるから、頼んで樹ぃからもがしたげるわ」
「ほんま? よしゃ~! いつごろ?」
「もうちょっと先やな。ほら、まだ花も咲いてへんし」
「はなさかんと、みぃならへんのか?」
「そやな、何ごとも順番順番」
「さきみぃなったらええのにな」
「ほんまやなあ。でも、花も実ぃも楽しめたほうが嬉しいやろ? それにさ、桃の花の時季には、めちゃイチゴが美味しいからな。先にイチゴ食べといたらええやん」
「イチゴ! ゆきちゃんイチゴもだいすき! なあにいちゃん、ほな、イチゴのはなもたのしんだらええんか?」
「え?」
「イチゴのはなもたのしんだらええにゃろ?」
「イチゴの花? イチゴの花か……。いや、白いのが咲くのは咲くけど、わざわざ見に行くことはないかなあ……」
「なんで?」
「いや。ほら、あれちゃう? イチゴって地面になるしさあ、見下ろされたら恥ずかしいねんて。きっと、恥ずかしがりやから実も赤うなるんやわ」
「カキはきぃになるけどあかいで。なあにいちゃん、カキのおはなもたのしんだらええんか?」
「大丈夫? 説明ぐだぐだになってるけど」
 くすくす笑いながら美佳が突っ込みを入れる。
「ごめん、無理っぽい。君あとでフォローしといてくれへん?」
「いやです~。自分の不始末は自分で処理して下さい」
「いや、不始末って。大まかなとこはわかってくれてるよなあ、ゆきちゃん」
「わからん」
 談笑する三人の打ち解けた様子を、静枝は微笑みながら静かに見つめている。

 大谷に近づくにつれ、駅への通勤範囲になるのか、両脇に真新しい民家が増えてゆく。梅樹も見られなくなり、道は急な上り坂になる。
「しばらく面白味のない坂ですけど、ここ越えたら梅林に出ますんで。もししんどなったらすぐに言うてくださいね。いつでも来れるように、車待機してますから」
「おおきにありがとう。大丈夫よ、脚はまだまだ達者なの。今日はほんまにええ日和。どこまでも歩いてゆけそう。」
 坂道を上りきり、竹やぶ沿いの川とも溝ともつかない茶色く濁った流れを渡ると、ぱっと視界が開ける。小路の左右には梅林が広がり、観光ルートではないのかほとんど人影もなく、梅農家と思しき男性がのんびり作業をしているのが見える。
「をを~良いじゃない。やっと観梅って感じがしてきた」
「うん。昔はね、この左側に播磨崎っていう山があって、そこからの眺めも凄かったらしいねんけどね」今はくすんだ濃緑の竹林と砂山しか見えない左方を見ながら健吾が言う。「どうです? もう地形ごと変わって、面影はないと思うんですけど、覚えてらっしゃいません?」
「そうねえ。天山に行く前に、何度も見晴らしのええ場所があったのは覚えてるわ。東屋もあって、臨時の茶店もできてて、一休みしながらゆっくり眺めを楽しんだ」
「もうちょっと先に、なかなかええビューポイントがあるんですよ」
 にっこり笑って、健吾が一行を誘う。
 しばらく進むと道は下りになり、一気に視界は右下方面に開ける。満開の白梅が、何層にも重なって、なだらかな斜面のずっと奥まで連なっている。いつの間にこんな高台にきていたのかと驚く。白梅ごしに、大谷地区の家並、いまだあちこちに残る田畑、木津川の堤防、さらにその奥の町々から葛城山系の山並みまで、うっすら春霞にかすんだ風景を見渡すことができる。
「すごい! 絶景じゃない!」
 美佳が思わず叫ぶ。
 空の青色と白梅の対比が鮮やかで、痛いくらいに胸に染み込んでくる。時折鼻をくすぐる梅の香りが艶やかで、恋するみたいな春のときめきが胸に満ちる。
「この辺の梅はそんなに剪定してなくって、樹勢もあるんで、花も多くてなかなか見ごたえがあるんですよ。昔はこの辺りの民家も、向こうの高い建物もなかったやろから、そら凄い光景やったと思いますよね」
「ええ……。それは綺麗でしたよ……」
 記憶の中の風景と重ねるように、静枝は眼の前に広がる風景を見つめている。
「ここでしばらく休憩しましょうか」
 話は通してあったのか、梅林の中に用意してある竹製のベンチに、三人を案内する。ちょうど一段高く平らに土盛りしてある部分にしつらえてあり、見晴らしはすごく良い。
 優希も、大人達と感興をそそられる箇所は違うようだが、機嫌よくあちこち眺めながら付いて来ている、今も何か興味が惹かれるものがあったのか、身体を反らして伸び上がるようにして、遠方を見ようとしている。
「ゆきちゃん、肩車したろか」
「かたぐるまてなにぃ?」
「ほら、こないだしたったやん。よしょっ!」返事を待たずに、優希を持ち上げ、肩の上に乗せる。
「うわあ、ようみえるわあ!」
「そやろ」
「かたぐるまたのしいなあ。ようみえるなあ」
「あれ? ゆきちゃん、肩車初めてか?」
「うん、はじめて」
「とうちゃん、してくれへんのか?」
「ゆきちゃん、とうちゃんいいひんねんで」
「えっ?!」思わず、必要以上に大きな声を出してしまう。
「ちょっと事情がありまして。シングルなんです」
 視線は遠くにやったままで、美佳が口角だけで笑ってそう言う。
 よしゃー!……っとガッツポーズしそうになるのを危うくこらえる。へらへら緩みそうになる顔面を意思の力で引き締める。
「よしゃ、じゃあにいちゃん、ゆきちゃんが肩車して欲しいときにはいつでもしたるしな」
「ほんまに?」
「ほんまほんま。この肩が恋しなったらいつでも呼んで。ええ景色いっぱい見せてあげるさかい」
「いいの? そんな約束して。その子、夜中の2時とかでも平気で要求してくるわよ」
「へ? まじで? い、いや、ええよ。浪人男子に二言なしやし」
「ほんとかなあ。あのねえ、中途半端な優しさが一番女子を傷つけるんだからね。あなた、なにげに安請け合いして、深刻なドツボに何度も嵌まってそうだけど」
「うぐ……。ええっと……ごめん、君ちょっと後でフォローしといてくれへんかな?」
「絶~対イヤ! この子ぐずったら、時所かまわずに呼び出すんで、よろしくお願い致します」
「えええっ」
「ああ、じゃあついでに、美佳ちゃんがぐずった時にもご機嫌とってもろたらええやないの」静枝がくすくす笑いながら口を挟む。
「わがままな孫とひ孫ですけど、よろしくお願い致しますね、健吾さん」
 冗談とも本気ともつかない様子でぺこりと頭を下げる静枝を、泣き笑いの表情で健吾は見ている。


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