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『殺戮の宴』 4

     2

「ハウワタッ! ワタッ! ワタタッ!!」
 間髪を入れずに、左肩、右二の腕、左ふくらはぎを激しくスパンキングする。彼の悪魔さながらの両手のひらは、的確に奴らを捉え、甲高い打撃音が響く度に確実に死の淵へ叩き落としてゆく。
「ハフ〜〜ゥル」
 彼の殺気に圧されたのか、数秒奴らの飛来がおさまる。第二波に備えて、下腹に気合を入れ直す。
 両手を開いて、掌をじっと見つめる。乾きつつある血糊にまみれて、無残に潰れた奴らの死骸が、右手に8匹、左手に5匹こびりついている。暝目し、冥界の神に祈りを捧げてから、指で弾いて草地に葬る。
 研ぎ澄まされた感覚で、二方から迫る新手の襲来を感じている。軽く構えをとり、半眼になって聴覚と触覚に神経を集中させる。
「はくっ……」
 右背中上部、左頬に複数匹降下。奴らの醜い口吻が皮膚に突き刺さってゆくおぞましい感覚に耐えながら、時を過ごす。急いてはいけない……。奴らの針が存分に食い込み、吸血が始まり、逃れにくくなるタイミングを待つ。野火のように広がる痒みに、眉間に縦皺を寄せて耐える。小刻みに、頭部がふるえる。燃え上がる殺意が、やわらかボデイの内部で渦巻いている。
 カッと眼を見開く。
「フワッ、チャ〜〜ッ!!」
 軟体動物のように身体をくねらせ、右手と左手を巻き付けるようにしてボディをヒットする。ピッと飛び散る鮮血が左顔面を汚す。確かな殺戮の手応えに浸りながら、右手にこびりつく血に眼をやり、ペロリと舐める。そのまま手を押し出して、クイクイと手招きのポーズをし、奴らを挑発する。

 蚊……最も忌むべき存在……。
 物心つくはるか以前から、彼にとって蚊は宿敵そのものだった。まるで宿世の業(カルマ)でも存在するように、奴らはどんなシチュエーションでも彼を嗅ぎ分け、狙い撃ちにした。
 まさかと思う状況、例えばスーパーで買い物したり、タクシーに乗ったりした際にも、家族の中で彼だけ襲撃され、いたいけな白い肌に紅い刺され跡を作っていた。
 七五三の記念写真、目蓋を刺されて腫れ上がった不機嫌きわまりない晴れ着姿の自分が残されているが、秋も深まった頃合いになぜ蚊がいたのかは全くの謎である。
 あれは五歳の頃、五歳年上の悪魔的な姉に、「おしおき」と称して上半身裸にされた上で雑木林の入り口に立たされたことがあった。姉はほんの悪戯のつもりだったらしいが、そのまま隣のエッちゃんと遊びに出て完全に忘失し、彼は2時間ほどそのままの状態で佇み、全身が紅く腫れ上がるほどに奴らに刺されまくり、夜間より発熱して数日寝込んで楽しみにしていた海水浴にも行けなかった。
 中三の夏休み、自由研究で『世界から蚊を殲滅する方法』というレポートを提出し、「荒唐無稽だが熱意は感じる」と理科の教師から褒められたものだが、その研究過程で、運命的とも言えるある事実を彼は知る事になる。
 蚊はメスしか吸血しない……。
 その事実に触れた瞬間、彼は妙に胸落ちする感覚があった。
 蚊と同様、もしくはそれ以上に忌むべき存在なのが、女子という生物だった。
 五歳年上の悪魔的な姉をはじめ、彼の周囲に居るクラスの女子たちは、まるで宿世の業(カルマ)でも存在するように、彼をいたぶり、もてあそんだ。奴らは、正当な理由など全く必要ねえとばかりに、集中的に彼に難癖をつけ、楽しげに非難の言葉を投げつけるのだった。
 いまだに、ギラつく眼(まなこ)を嗜虐の喜悦に光らせた奴らの嘲笑に取り囲まれる悪夢を見て、深夜飛び起きることがある。脂汗をタラタラ流しながら、彼は憤りと恐怖にうち震える。
 その繊細な魂に、深い亀裂が生じていることを彼は気付いている。給餌を待つ雛のように切実に、何者かによる救済を待ちわびているのが分かる。
 三十六歳の夏を迎えた今も、彼は童貞だった。箱入り娘のように清らかな貞節を、彼は完璧に護り続けていた。
「嫌悪感から女性を寄せ付けない」という単純な心理とは少し違う。虐げられた傷口が痛めば痛むほど、むしろ優れた女性原理への憧れは強くなった。いつかホタテ貝に乗った海辺の女神のような完璧な女性が、笑顔で自分を迎え入れてくれると信じていた。
 しかし、現実に現れる女子は女神とは程遠い輩ばかりだった。社会人になってからはさすがにパンツをずらして写メに撮るとか集団悪ふざけの標的的な仕打ちはなくなったが、軽い無視から始まって愚痴に道理のない叱責に八つ当たりに陰口と、ジークンドーの理念に沿って自らを律する彼にとっては全く意味が分からない愚行を、奴らは示し続ける。

「ホワ〜ウッ!!」
 ことさらに力を込めて、腹部と肩口にとまっていた奴らを叩き潰す。痒みを圧倒する自らの殴打の痛みを、涙目になってじっくりと味わう。
 メスオンリーである憎き蚊たちは、彼を嘲み続けた女子たちの化身そのものであり、奴らに対峙することは自らのルサンチマンを炙り出すことに他ならなかった。醜く歪んだ女子たちの獰猛な貌を重ねながら、彼は蚊を叩き潰す。それは彼にとって、自らを失意の淵から救出する聖戦であり、遂行なった暁には、ホタテ貝の女神との甘い出逢いが待っているような、そんな予感がしていた。

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