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『Sing a Simple Song』 1


とりと いっしょに 

そらを とべたら いいのになー
 
そらを とんだら 

みんなに あえるのです

みんなと いっしょに 

そらを とべたら いいのになー


     1

 静かな住宅街の路地をゆっくりと歩いてゆく。中央線を行き交う電車と道路の騒音が、小波のように伝わってくるのを、なんとなく感じでいる。どんなに静かな時間帯でも、決して人の営みの音が途絶えることのないこの環境を、拓真は決して嫌いではない。
 3センチほどの段差を乗り越えるため、車椅子を押している両腕に力を込める。子供用の車椅子にちょこんと座る少女は鳥のように軽いとはいえ、まだ小学生である彼にとって負荷はかなり大きい。
 少し気になって、右側から少女を覗き込んでみる。
 クセのある髪を後ろでまとめた青いちょうちょ形のバレッタが可愛いく揺れている。ほっそりとした白い両手を、ベージュ色の膝掛けの上で行儀よく重ねている。
 拓真の視線に気づいたのか、車椅子の少女ーーちいちゃんは、かすかに顔を右に向けて、柔らかな微笑みを浮かべる。
 彼女は繊細かつ鋭敏な感受性の持ち主であり、自分たちよりもはるかに多くのことを世界から受け取っているように思える。自分に向けられたその透明な笑顔があんまり綺麗で儚げで、なんとなく気恥ずかしくなって、「うおおおお〜っ」と声を上げながら車椅子のスピードを上げてゆく。春の旋風が、音を立てて路地を吹き抜けてゆく。ちいちゃんがかすかに、笑い声をあげる。
 大通りの交差点で信号待ちをしている時、道の向こう側でクラスの女子が二人、ニヤニヤ笑いながら自分を見ていることに気づく。信号が青になり、すれ違う時も、二人は何やらヒソヒソ話をしながら車椅子を押す自分を眺めている。
 浮き立っていた心がくしゃっとしぼんだようになり、口をへの字に結んで、肩を縮めるようにして車椅子を押して行く。
 荒々しい波動が苦手なちいちゃんの為に、なるべく人通りの少ない静かな道を選んでいることは事実なのだが、自分の中に「ちいちゃんと一緒のところを見られたくない」という気持ちが潜んでいることも、拓真はちゃんと気づいている。そんな気持ちを見透かされた気がして、恥ずかしさで胸がいっぱいになる。
「…… ぃ が と」
「えっ?」
 不自由な身体をせいいっぱいよじって、微笑みを浮かべたちいちゃんが何かを伝えようとしている。
「た く ちゃ の お にぃ ちゃ ん、あ り が と」
「やめてよ。いっしょに散歩してるだけじゃん。なんでお礼なんか言うんだよう」
 照れ隠しに、鼻の下を二回ほどこする。
「さあ、急がないと! もう始まっちゃってるかも」
 そう言って、拓真は大きな笑顔を見せる。
 緩やかな坂道を、注意深くブレーキをかけながら下ってゆくと、すぐに井の頭公園の樹々が見えてくる。
 ちょうど桜が満開の時季をむかえていて、池のほとりに植えられた樹々が薄紅色の可憐な花をいっぱいに身につけている。公園の入り口で足を止めて、緩やかな風に揺れる雲みたいな桜花の連なりを、しばらく眺めている。
 春の風に乗って、ギターの音色が聴こえてくる。
 こうやって、少し離れた場所から聴いているギターの音も、拓真はすごく好きだ。ある一点で奏でられる音楽が世界に広がって、ゆっくり空に溶けてゆくのが分かる気がする。
 小さな野外ステージの手前あたりにあるいつものベンチで、彼はギターを弾いていた。ウオーミングアップをかねて、軽く即興で弾いているようだが、それでもCDにしてずっと聴いていたいくらいの魅力があった。ネックの端から端まで流れるように左手は動いて、音を紡ぎ出してゆく。HEADWAYという日本のブランドらしい飴色のアコースティック・ギターは、びっくりするくらい豊かな音をその大振りのボディから響かせる。
 拓真たちが来たことに気づいた彼は、目元を細めて軽く笑って見せると、演奏のシメとして、ちいちゃんが大好きな “Let's sing a song” のメロディを爪弾いてくれる。
「さあ、始めようか」
 ジャカジャ〜ンと、強くスクロールされたHEADWAYが鳴り響く。
 静かなイントロに少しハスキーで伸びやかなヴォーカルが重なり、曲がスタートする。
 彼のオリジナル曲を中心に、誰でも口ずさめるスタンダード・ナンバーや、ちいちゃんへのサービスか、ジブリの曲なども織り交ぜて、ライブは進んでゆく。
 拓真たちの他に、ライブを聴きにきている人が数名、たまたま足を止めて聴き入る人たちも数名、そして少し離れた場所で桜を観ながら曲を楽しんでいる人たち。穏やかな午後の公園に色を添えるように、彼の奏でる音は世界に広がってゆく。
 エンディングは、いつものように “Let's sing a song” を弾き語ってくれる。
 もともと、ちいちゃんが通う養護学校に依頼されて作った合唱曲なのだが、ちいちゃんの大のお気に入りであり、彼女が観ている時は必ずセットリスト に入れてくれる。胸がこそばゆくなるような、王道のメロディラインを持った名曲であり、一番盛り上がるサビの部分では、ちいちゃんも口ずさんで身体を揺らしている。


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“Let's Sing a Song” 環輝美帆


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