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『殺戮の宴』 7

     5

「お前にだけは報告しといてやろうと思ってな。気持ちは分かるが嫉妬して言いふらすんじゃないぜ」
 したり顔の前田は、“童貞”というワードは発しなかったが、もし発していたら容赦なく殴っていたと思う。
「特別に見せてやる。可愛いだろう」
 ケータイの画面に写し出されたその子は、ぽっちゃりした垢抜けないメガネっ娘で、しかも小柄な前田より15センチは身長があり、どう贔屓目に見ても“最高にキュート”とは形容し難く、俺なら絶対にないなと冷徹に眼を細める。
「良さそうな子じゃないか」
 もちろん、正直な感想をそのまま口にするほど彼もセルフィッシュではない。ギリギリ自己の良心に背かない程度の感想を伝えてやる。
 一応、エア彼女の可能性……寂しさのあまり奴が作り出した妄想の線も疑ってみたが、どうやら本当に輝けるラブ期を謳歌しているようだった。
 幸福感はガリ細の体躯から後光のように滲み出し、態度、物腰から、仕事に対する取り組み方まで明るく能動的になり、それまで目も見れずに用件を伝えるだけだった企画部の林さんとも、屈託なく笑顔で冗談を言い合ったりしている。童貞を捨てるだけで人はこんなに変わるものなのかと、彼は感慨にふけると共に、自らの言動の童貞臭さを改めて検証し直した。
 ある時、珍しくはにかんだ様な笑顔を浮かべた前田が、弁当を差し入れてくれた事があった。小洒落た紙包みの中のそれは、奴手作りのサンドウィッチだそうであり、嫌な予感しかしなかったが好意を無下にすることもできず、恐る恐る口にしてみる。
「どうだ、美味いか?」
 サンドウィッチは思いのほか手のこんだもので、縦切りにしたバケットに数種の野菜とローストビーフが挟まれており、店で買っても普通に満足できるレベルだった。
「ソースはどうだ? 美味いか?」
 正直あまり味を感じないなと思ったが、どうとても取れるように軽く頷いておく。
「美味いだろう。そのソースは彼女の愛液の味を再現したものだ」
 ガフっと咳き込んだ弾みに食物を気管に詰まらせ、優に5分ほど地獄の酸欠の苦しみを味わう。
「なんで俺が貴様の不細工な彼女のラブジュースを味わわなならんのだ!! このクソ童貞っ!!」
 チアノーゼを呈した紫色の顔に涙と鼻水をテラテラと光らせて彼は絶叫する。
「照れるな照れるな。幸せのお裾分けって奴だよ」
 童貞と罵られても全く気にしないノン童貞の余裕を見せて、前田は晴れやかに笑って見せる。
「ま、まさか……」ある疑念がむくむくと沸き起こる。恐怖のあまり、背筋がざわざわと粟立つ。
「まさかお前、本物の愛液を俺に食わせたんじゃないだろうな?」
「バカかお前は」興醒めしたような貌で前田は彼を見る。
「なんで最愛の彼女の貴重な愛液をお前に振る舞わなならんのだ。怖いわ童貞の考えることは」
 もしこの時、前田がイエスと応えていたら、奴を殺して自分も死んでいたろう。彼が蚊以外の存在に対して、濃密な殺意を覚えた初めての瞬間だった。
「もっとも、前夜のエッセンスが残留していた可能性はあるがな。そういえばちゃんと手洗ってねえし」
 フハハハハと高らかに笑う前田の痩けた頬を、渾身の力を込めて殴りつける。スローモーションのように黒縁のメガネが飛んでゆく。宿年の怨敵、妹の仇○○を惨殺した瞬間の師父さながらの、怒りと悲しみがない混ぜになった般若の形相を、ピクッ、ピクッと震わせる……
 
 師父よ……彼は魂でその人に語りかける。
 自分の暴力衝動を抑えきれなかったことには反省もある。しかし、あの一打に関しては、師父もきっと認めてくださるという確信がある。
 誰しもが、決して触れてはならない大切なものを、胸の奥に秘めている。それをあの時、前田は踏みにじったのだ。
 大方の予想に反して、前田は今も彼女と仲良くやっている。牽制しつつの仕事上の付き合いも、変わらず続いている。
 殴打の一件に関しては、大した怪我もなかったし、童貞の哀れな錯乱として不問にしてやると奴はのたまったが、落下して破損したメガネの修理代はしっかり請求された。代金と一緒に、サブウェイのお食事券と特濃オニオンソースのボトルを贈ったが、嫌味だとはきっと気づいてない。
 結局、同志を求めた事がそもそもの間違いだった……飛来する蚊との死闘を続けながら、彼は思う。
 師父へと通ずる至高のドラゴン・ロードを極められるのは、孤独と童貞に耐える気根のある俺だけなのだ。
 前田に渡すつもりだった『燃えよドラゴン』は、セコハン屋で処分した。一緒に持ち込んだくだらないAVより150円ほど高く値がつき、軽い誇らしさを感じた。

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