見出し画像

春は遠き夢の果てに 逢谷絶勝(二)

     二

 さっきまで手を繋いでいたはずなのに、採集場に気を取られている少しの間に、姿を消してしまった。
「ゆき~っ! ゆきちゃ~ん!」
 名前を呼びながら、着ていたパーカーの薄桃色を探す。梅の木陰や出店の裏側を注意しつつ、あちこち動きながら遠近をくまなく探すが、やはりみつからない。
「まさか……」
 さっきまで眺めていた採掘の跡地を想起する。もしあんな蟻地獄さながらの深い穴に落ちたら、優希みたいな幼児はとても上がってはこれない。
 身も凍る思いでダッシュし、立ち入り禁止のロープを飛び越え、道端の細い木の幹に手をかけ、眼下に急角度に切り立った斜面に身を乗り出し、採掘場を一望する。お気に入りのハーフブーツが汚れるが、かまってはいられない。
 優希は総じて聞き分けの良い子なのだが、何か心惹かれる物事に出逢うと、日頃の抑制がふっとんでしまうかのように突飛な行動に出ることがある。その度に「おとなしいおりこうさんのゆきちゃん」などこの子のほんの表層の一つにすぎないんだと思い知らされる。
「ゆき~っ!」
 砂地の斜面にも姿は見当たらない。黄土色を背景に、彩度の強い子供服は目立つはずだし、身が隠れるほどの凹凸もないので、こっちには来ていないだろうと自分に言い聞かせる。確信もないまま、さらに危険な場所まで踏み入らんとする自分を必死で抑える。
 落ち着け、落ち着け……何度か深呼吸して、兆し始めたパニックの芽を散らす。もしこのまま優希がいなくなったら! 不吉な思念は退けようと思うほどに心を暗く染める。あの夜、真っ暗な冷え切ったアパートで、ベビーベッドから抱き上げた優希の火の出るように熱い身体の感触が、はっきり思い出される。「優希のこと、たのむね……」そう言った、彼女の消え入りそうな声音が、はっきり耳に甦る。
 瞳に滲んだ涙を拭い、「きっ」と顔を上げて梅祭り会場に向かう。まず、迷子の届出をして、協力をあおぐ。どんなに人に迷惑をかけてもかまわない。絶対に最悪の事態など起こさせないと心に誓う。
「♪まいごのまいごのこねこちゃん~あなたのおうちはどこですか~?」
 悲壮な決意を嘲笑うかのような能天気で楽しそうな歌声が、梅林の奥から響いてくる。「ゆきちゃんのおかあさ~ん、いませんか~? ゆきちゃんまいごですよ~」優希を肩車している見知らぬ男性が、陽気に声を張り上げる。
「あ、かあちゃ~ん!」こちらをみつけた優希が、満面の笑顔で手を振ってくる。安堵で腰が砕けそうになりながらも、くわっと怒りが灼熱し、ゆっくり斜面を上ってくる優希と男性にダッシュで駆け寄る。
「ゆきっ! 勝手にいなくなっちゃダメって何度も言ってるでしょっ! どれだけ心配したと思ってるのっ!? もおっ! バカ! ゆきのバカッ!!」
 初めは、何を怒られているのか理解できないといった風の優希だったが、美佳の激しい怒りに触れて、みるみる表情を曇らせる。
「なんでえ……ゆきちゃんな、さがさなあかんかってん。ちょうちょのお兄ちゃん、さがさなあかんかってんで……」
「はっ? なに?」
「ゆきちゃんな、ずっとずっと、ちょうちょのお兄ちゃんさがしててん。ほんでやはったからな、みつけにいってん。ゆきちゃん、ちょうちょのお兄ちゃんみつけてんで」
「何言ってるの? あたしが、優希をさがしてたんでしょ? あなたが黙っていなくなるから、かあちゃんほんとに心配して、ずっとさがしてたのよ。無事に会えたから良かったけど、もし危ない目にあってたらどうするの?」
「なんでえ……なんでえ……」
「まま、ええやないですか。こうやって無事に会えたんですから」
 それまで黙って推移を見守ってきた男性が、努めて明るい声音で割ってはいる。子供には慣れているのか、肩の上でべそをかき始めた優希を「よしょ」っと充分な筋力を感じさせる長い両腕で抱き取って、なだめるように頭を撫でてくれる。
「あの、本当に申し訳ありません、ご迷惑おかけして……」
「やや、ご迷惑やなんてとんでもない。ちょっとびっくりはしましたけれども」
 頭を下げる美佳に、男性はいたずらっぽくにっと笑って見せる。
「ところでさあ、ゆきちゃん」真面目なシチュエーションが苦手なのか、男性は照れ臭そうに急に優希に話題を振る。
「さっきから『ちょうちょのお兄ちゃん』言うてるけど、それ俺のことかな?」
 こっくりと頷く優希。
「なんで?」
 黙ってただ首を振る。
「もしかして、ちょうちょが頭の上でひらひら舞ってそうなほど、能天気な兄やんってことか」
「……ぅん」
「あはは、うんって。ある意味俺が目指す人間像に近いから、光栄や思わなあかんね」
 気持ちが落ち着いてきた美佳は、やっと男性をゆっくり観察する余裕が生まれる。年齢は三十前後だろうか、ぱっと見は若々しいが、いつも微笑みをたたえた目元には、経てきた労苦をうかがわせる深みがある。正常な勤め人ではないようで、少しクセのある伸ばし放題の蓬髪を、後頭部で無造作にくくっている。美青年タイプではないが、面長のよく日焼けした貌には、運慶の仏像に通じる若々しいキュートさがあった。
 何かの作業中だったのか、身に着けているカーゴパンツと作業用の青いジャンパーが、ひょろっと丈高い体躯によく似合っている。いまだにあれこれ優希の機嫌をとってくれている彼の様子を眺めていた美佳は、不意に、自分の瞼がじんわり濡れていることに気づく。男性の、人懐っこい大型犬を思わせる褐色の瞳を見つめていると、不思議な感動は湧水のように後から後から溢れてきて、慌てて視線を逸らして眼をしばたたかす。

「いや、でもほんま、びっくりしたで。向こうの下の方で遊歩道の補修してたらさあ、いきなり背中にぶわって飛びかかってくるモンがあって、猿にでも襲われたんかって、一瞬パニックなったわ」
「この辺、猿が出るんですか?」
「いや、おらんねんけどな、実は凶暴なんがどっか潜んでたんかなって。なあ、ゆきおさる!」言下に、お腹をくすぐられた優希は、楽しそうにきゃはははと笑う。男性の慰撫のおかげですっかりご機嫌も治った優希は、にこにこと二人の間に鎮座している。特に人見知りの方ではないが、この子がこんなに早く他人に心を許すのは珍しい。子供あしらいが上手いというよりも、誰の懐にもするっと入り込んでしまえるような生来の愛嬌を、男性は有しているようだった。
「あ、俺、一之瀬健吾っていいます。今は一応、浪人中ってことになんのかな。家業を手伝いながら、知り合いの農家とか手伝ったり、まああれやこれやと」
「お家、商売か何かなさってるんですか?」
「うん、まあそんなとこ。今日は地元の商工会がらみで運営のボランティアってやつで。いろいろできて楽しいけどね」
「ふふ。お手伝いがお好きなんですね。あ、大丈夫なんですか? こんなにゆっくりしてて」
「ええねんええねん。もともとそんなやることもないし、全部ツレに投げてきたから。ははっ」そう言って、売店でうどんを茹でているもじゃもじゃ頭の男性を親指で差して見せる。
「あたし、杉吉美佳です。改めまして、さっきはどうもありがとうございました。普段はほんとに大人しい子なんですけれど、何かの弾みで急に大胆な行動に出ることがあって……」
「ははははっ、俺の子供ん時みたいに、いっつも悪ガキやったら警戒も途切れへんのやろけどね」
 三人は、会場内に設置された木製のベンチに移動している。せめてものお礼にと、美佳の方から昼食に誘ったのだ。北を背にして腰掛けると、無粋な人工物は目に入らず、のどかなお花見気分に浸ることができる。ふとした弾みに感じる梅花の甘い香りが、硬化していた心の一部を優しくほぐしてくれる。
「今日は? 親子で梅見に来たん? まだちょっと早かったやろ。あと二週間もしたら、見頃になると思うんやけどなあ」
「今日は下見に来たんです。ぜひ此処に連れて来てあげたい人がおりまして」“親子”という言葉に少しひっかかりながらも、美佳は微笑んで受け流す。
「ほう。というと?」
「うちの祖母がね……」と、龍泉寺の住職にしたのと同じ説明を美佳は繰り返す。
「へええっ、この大谷梅林がなあ。ちょっと信じられへん感じやけど」そう言って、健吾は背後の砂利採集場の砂山を仰ぐ。
「一之瀬さん、天山って登ったことありますか?」
「ああ、健吾でええよ。天山ってあの天山かな?」
「“あの”って言うと?」
「ああ、大谷小学校の校歌にね、出てくんねん。“♪ああ天山の樹々よりも~”って。まさかそんな身近な登ったりできる山やとは思ったこともなかったわ」
「やっぱりですか……」
「で、梅林はどうやった?」
「気を悪くしないで欲しいんですけど、正直、残念でした。祖母の話しがあんまり美しかったので、期待しすぎた所もあるんでしょうけれど、もっと、なんて言うか、胸に響く場所かと思ってました」
「枯れとるよなあ、いろんな面で……」ふっとため息をつくと、健吾は寂しそうに笑って見せる。
「俺が子供ん時はさ、もうちょっと土地そのものが瑞々しかった気がする。梅林ももっと広くてな、向こうの市来の辺りまで広がっとって、ようみんなで弁当持って梅見に出かけたもんやわ。」
「砂利採集場って、その頃からあったんですか?」
「あったあった。もしかしたら、梅林と同じくらい、俺らにとっては原風景なんかも知れん。今はさ、目隠しのつもりか知らんけど、道の脇に土盛りがしてあるやろ。ちょっと前はあれもなくって、北側は一面、抉られた山肌が剥き出しやった。小学生ん時とか、写生の時間にあのごっつい建物描きに行ったし、マラソン大会で荒地のど真ん中走らされたりもした。子供やから難しいことは分からんかったけど、でもきっと、自分らの町を護ってくれてた山々が、惨たらしく削られてゆく現実は、胸の奥で理解してたと思うねん」
「ほんとにごめんなさい。あたしね、びっくりしたんです。こんなに激しい自然破壊のすぐ横で、よくみんなお祭り気分で楽しめるなあって。腹が立ったり、悲しくなったりしないのかなあって」
「う~ん。みんな、見て見ぬふりをしてんのか、慣れてしもてんのか、そもそも悲しい光景やって思てもいてへんのか……」
 健吾の表情から穏和な微笑みは消え、失態をやらかした中学生みたいに、くしゃっと貌をしかめる。
「俺さ、しばらく……まあ十年ちょっとくらい、京都を離れててな、あちこち放浪の末、3年ほど前に帰ってきたんやけど、あっちの木津川の堤防から眺めた町の様子がショックでな……。記憶にある白っちゃけた山の掘削跡が何倍にも広がって、形変わるどころか山ごとなくなっとった。あれはさ、やったらあかん事やと思った。何の畏敬の念もなく、砂利取る為だけに山切り崩して、後は荒地のまま放置やからね。罪やね。ほんま大きい罪やと思うよ。君に言われて初めて意識したけど、記憶にある限り今まで一回も、ここいらの人とあの採取場について話したことなかった。みんなさ、自分らの罪と向き合うのが怖いんちゃうかな。取り返しのつかへん罪を犯してもたってこと、心ん中ではきっと解っとるんやわ」
「罪、ですか……」
 思ってもみない程の強い反応が返ってきてしまった。健吾はいまや、悲痛とも取れる表情で虚空を睨んでいる。
「なあ、『もののけ姫』のラストってどう思った?」
「『もののけ姫』って、宮崎駿の?」
「うん、宮崎駿の」
「う~ん、ハッピーエンドではないですよね。人が穢した神の怒りを、とりあえず鎮めたっていうだけで。人はそれからも森を侵し続けるしかないし、神々やもののけはそれを決して許せない……」
「うん……。神力が溢れ出して、新芽が芽吹いたり人々の業病が治ったりしてたけれども、あの清々しさは、元々神々が棲まった森の神性とは別物やからね。シシ神は、人間を見放したんやと思う。うわべは順調で、上手くいってるように見えても、知らんうちに、一番大切なもんが永遠に失われてしまってる」
「怖いですね……」
「自業自得やね。この場所にかつて、君が言うてるような美しい風景がもしほんまにあったとしたなら、それを失った事そのものが、俺らに対する神罰なんやと思う。俺らは取り返しのつかへんことをした……。その事実を、あの削られた山々を目にする度に思い知らされるんやわ」
「う~ん、でも……でもね、そう感じるのってあなたみたいなほんの一部の人だけで、実際に山を削ってお金を儲けた業者や行政側の人たちは、何の痛痒も感じてないんじゃないかしら?」
「うっ」と言葉につまり、眼をぱっと見開くと、健吾は大声で笑い出してしまう。
「ははっ、ごめんな、なんか語ってもうたわ。青臭いよね。ここの砂利もあちこちの“高度な成長”の役に立ってんやろし、そもそも梅林も、元の山にしてみたら“なに変な木、植えてくれとんねん”みたいな話かも知れんしね」
「いえ、違うの……あのね……」
「なあ、おなかすいた」
 それまで黙って聞いていた優希が、美佳の肘をつまんで催促する。
「ほんまやなあ。なんかお弁当あるんやっけ?」
「ええ、あの、一応、用意してきてるんですけど、足りなさそうなんで、おうどんか何か買ってきても良いですか?」
「あ、俺行ってくるわ。売店のあいつ。俺のツレやし」
「あ、お金」
「ええからええから」にこっと笑って席を立ちつつ、健吾が手を振って見せる。
 結果的に、彼の言葉に水を差す形になってしまった。そんな意識は毛頭ないが、揶揄したように響いたかも知れない。美佳は、穏やかな表情を変えない健吾の瞳に、ふっと悲しみの色が差したのを見逃さなかった。
 心情的には断然、熱い共感を覚えているのに、責任転嫁と自己弁護ばかりの世の中をよく知っている美佳にとっては、自分と直接関りのない“罪”まで背負おうとする彼の処し方は、あまりにも純粋すぎるように思えたのだ。なんとか弁明したかったけれど、言葉にすると白々しくなりそうな気がして、話題を蒸し返すことはできそうになかった。

「うわっ、なにこれ? めっちゃ豪華やん!!」
 オレンジのレジャーシートに広げられたお弁当を見て、健吾が感嘆を漏らす。大きめの弁当箱には、煮しめ、焼きシャケ、卵焼き、お浸しといったお惣菜類がたっぷり詰め込まれている。ほぼ肉類はないので、盛年男子には物足りなく感じる向きも多いのだろうが、彼は心から喜んでくれているようだった。
 三人そろって「いただきます」をしてから、健吾はまず、小さく俵型に握られたおにぎりに手を伸ばす。ほぼ一口で口の中に収め、ゆっくり噛み締めていた彼だったが、何かに気づいたようにふと口の動きを止めると、次第に表情から微笑みが薄らいでゆく。
「な、なにこれ……」間髪入れずにもう一つおにぎりを口に放り込み、新説を思いついた学者みたいな真剣勝負の面持ちで、一心に咀嚼を続ける。
「美味しい……。これ、めっちゃおいしいね……」
「うふふふ」美佳はにんまりと、照れたような微笑みを浮かべている。
「お米からして普通やないよね? 一粒一粒がもっちもちで、噛んでるとえもいわれぬ旨みと甘みがでてきて。塩っけも、からいだけやなくてまろやかで奥深い」
「ふふ。わかってくれてありがとう。お米はね、知り合いの農家さんが、無農薬で完全手作業で作ってるのを、特別に分けてもらってるの。お塩は高知の天日干しのもの。ちょっと高いからいつもは使えないんだけどね」
「手作業? 機械使わへんってこと?」
「そう。機械使わないんだって。市場では、かなりの値段がついちゃってるみたいだけど、うちはお友達価格でかなりお安く」
「知り合いって?」
「うん、うちのおばあちゃんのお友達。なに? 農業興味あるんですか?」
「うん、すごい。この辺にも農家は多いから、手伝いくらいはようしてるんやけど、こんな美味しいおにぎり、今までほんま、食べたことなくって」
「ふふ、ありがと。よかったら紹介しましょうか? あたしも稲刈りとか、ちょっと手伝ったことあるの。そや、あなたも田植え、手伝ったわよね、ほら、よしおのおじちゃんとこの田んぼで、どろどろになって」
「てつだった! たのしかった!」
「うんうん、ぜひお願いするわ」と言いつつ、またおにぎりに伸ばそうとした手を、慌ててさっと引っ込める。「あっ、ごめん。君らの分がなくなってしまうよね。つい夢中になって」
「いいんですいいんです。あたしはいつも食べてるから」
「ほんま? じゃあ遠慮なく」そう言って、幸せそうにおにぎりをほお張る健吾の様子を、美佳は瞳を細めて見つめている。

 昼食をとりながら、お勧めの梅見スポットや観光地を教えてもらうが、地元民が心から自慢できそうな景観は、残念ながらあまりないようだった。お弁当が綺麗になくなってからも、なかなか話題は尽きなかったが、もじゃもじゃ頭の“ツレ”さんが大声で呼ばわるのをしおに、健吾はのっそりと立ち上がる。
「じゃ、ほんとにどうもありがとうね」
「いやいや。おばあさんによろしくね。そやなあ、再来週辺りが梅見のピークやと思うけど、だいたいのイメージはつかめたかな?」
「それなんですけれど……」ふっと視線を逸らすと、美佳は申し訳なさそうに眉をしかめる。
「おばあちゃん、連れてこないことにします。きっと、長年の回想の中で、かなり現実よりも美化しちゃってると思うんですよ。今の梅林の様子を見せたら、落胆じゃ済まないくらいに傷つけてしまう気がして」
「……そうかぁ」
「なんだか、ごめんなさいね」
 自分が謝りかねないほどに気落ちした健吾の心持ちを察して、美佳は先に謝ってしまう。
「そうだ、一個忘れてた」
 急にトーンを変えて、美佳がつぶやく。
「大谷酒造って、どう行ったら良いのかしら? 地酒とか酒蔵とか、あたしすっごく興味があって」
「大谷酒造!?」一拍おいて、健吾はくすくすと笑いだす。
「何なに?」
「そこ、俺ん家やねん」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?