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春は遠き夢の果てに 逢谷絶勝(七)

     七

 天満宮からは車に乗って移動。旧家が多い家並を抜けて、田んぼわきの小道を進み、公園横から竹やぶに分け入った辺りで車は止まる。
「いくつかルートはあるんですけれど、ここからが一番登りやすいんで」車を降りながら健吾が言う。
「昔の観光ルートとしては、今の梅祭りの会場辺りから、山づたいに天山に至る道もあったみたいなんですけどね」
「あ、お地蔵さま!」声を上げると、静枝が道端の小さな祠にてくてく歩み寄る。
「このお地蔵さま、覚えてます。ここいらの人は、お山に登る前にご挨拶するんですって。そやわ、きっとこの道も通ってますわ」
 そう言いながら、祠の前にそっとしゃがみ込む。石で組まれた祠の中には、風化して、お顔も判別できない小さな愛らしいお地蔵さまが、二体並んで祀られている。まだお世話をする人も居るようで、よだれかけは赤々として、少ないながらも心のこもった生花が供えられている。
「おじぞうさん?」
「そやで。ゆきもご挨拶しとこか」
「おじぞうさん、うれしうれしいうてはるな」
「そう。言うてはるの? 今日はばあちゃんも嬉し嬉し。しっかりご挨拶しとこな」
 手を合わせる二人につられて、健吾と美佳も後ろからお参りする。

 道というよりは、踏み跡にちかいような褐色の筋が、竹やぶの奥に向かって伸びている。昼間でも薄暗い、さわさわとざわめく竹やぶの薄気味悪さに怖気を震ったように、美佳は身体に手を回して軽く身震いする。
「ここからどれくらいかかるの?」
「うん、距離はたいしたことなくって、時間にしたら十五分弱ほど。でもな、急な斜面とかもあって、静枝さんお辛いと思うんで、もしお嫌じゃなかったら」と言って、静枝に背を向けると、さっと手を伸ばしてしゃがみ込む。「おぶわせていただきます」
「まあまあ」面白そうに、静枝は笑っている。「そうね、せっかくなんで、お願いしようかしら」
 健吾の広い背中に、身体を預ける。逞しい両腕がしっかり脚をホールドしてくれる。ひょろっとした見た目よりはるかに強靭な筋力を有しているようで、加重がまったく苦でもないように、あっさり立ち上がる。
「さあ、行きましょうか」
 少し照れているのか、言葉少なになった健吾は、もくもくと先を歩いてゆく。
 竹やぶから雑木林に移り、足元もやわらかい竹の葉の堆積から、普通の地面へと変わる。ルートに合わせて、幅数十センチほどに雑草が綺麗に刈り取られているため、思いの外歩きやすい。
 鬱蒼とした雰囲気も、道を進むにつれて見える空の面積も広がり、次第に明るくなってゆく。
「ちょっとこっから、道がけわしくなるし。優希ちゃん、気を付けてね。冗談してたら怪我するからね」
「はいは~い」調子よく返事を返すと、優希は美佳に駆け寄って手を繋ぐ。
 崖に近いほどの急勾配の上りになるが、斜面に沿って木材が埋め込まれ、階段状に整えてあるため、さほど苦もなく上ってゆける。
 勾配を上りきると、両側が深く落ち込んだ、山の稜線を歩く形になり、健吾、優希、美佳の順で一列になって進んでゆく。力強い足取りで、確実に歩を進める健吾の背中に揺られながら、誰にも悟られないように、そっと涙を拭う静枝を、優希だけがにこにこ笑いながら見ていた。
 最後のピークを越えると、広さ八畳分ほどの広場に出る。ちょうどお日様が頭上の樹々を抜けたところで、広場全体が心地良さそうな陽だまりになっている。
「はいお疲れ様。ここが天山、山頂です」
 にっこりそう言ってから、健吾は背中の静枝を注意深く下ろす。
「もうすっかり、かつての面影はないと思うんですけどね。昔はここ、ハゲ山になってて、今日ずっと歩いてきた北の方の梅林から、さらに南の方まで、180度以上のパノラマで風景が楽しめたって言うんですから、それはさぞかし絶景やったんでしょうね。あ、よかったらベンチに座って景色見てください」如才なく、広場の中央に置かれた真新しいベンチに三人を誘導する。その竹製のベンチが、今日通ってきた行程のあちこちに置かれていたものと同じ作りであることに気付き、美佳は胸を衝かれたような表情になる。
 眼の前には、いまだ緑豊かな南山城の眺望が開けている。梅林の方向は生い茂る樹々に隠れて見えないが、大谷の町並から木津川の流れ、さらにその奥に連なる山影まで、今日一番の遠望を楽しむことができ、かつて祖母が実見したという夢のような風景にも、思いを馳せることができた。
「ここ天山は、典型的な里山で、村人がみんな自由に入って焚き木を拾って、子供らのはしゃぐ声がいっつも響いてて、この大谷の象徴的な山やったんですよ。人間って勝手ですよね。生活様式が変わったら、それまでお世話になってきたこの山には見向きもしなくなって、手入もせずに荒れ放題で。でもね、こないだおれも初めてここに登ってみたんですけど、頂上のこの場所は清々しいままでね、もしかしたら、山の神さんは、人間がどんなに自分勝手で我儘でも、気長ぁに見守ってくれてはんのかなあ……なんて、感じてたんです」
 やわらかい陽光を全身で浴びながら、大谷の町を眺める。微かに聞こえる電車の音、ゆっくり移動するおもちゃみたいな車や自転車、立ち止まって話す女性と、その周りで走り回る子供たち……ありふれた人々の日々の営みが、とても貴重なものに感じられる。
「ねえ、このベンチ……」腰かけているベンチの角を触りながら、美佳が言う。
「あなたが作ってくれたの?」
「ん? うん、まあ手先小器用なんでね」
「ここに登るまでの道も、下草が刈られて綺麗に整備されてたし、坂のとこには階段もつくってあった。あれも全部、あなたがやってくれたの?」
「うん、昔とったなんとかってやつで、森林整備の仕事もしたことがあってね。こういう作業、性に合ってるっていうか、好きなんやな」
「なんで? なんでそこまでしてくれるの?! なんの得にもならないことでしょう?」まるで責めるような口調で、美佳が言う。大きな黒い瞳が、昂ぶる感情を表してきらきらと輝いている。
「う~ん、なんでって言われてもなあ……」苦笑しながら、健吾はぽりぽりと頭をかく。
「おれね、嬉しかったんですよ、この大谷に関する想い出を、宝物みたいに大切にしてくれてる人が居るって知って」少し照れたように、視線を彼方に遣る。
「おれ、正直、今までこの町がそんなに好きやなかったんです。中途半端に田舎やし、山もどんどん削られて不細工になっていくし。でもね、今回のことでいろいろ勉強して、昔はほんとに仙界みたいな光景があったことも分かって、そういう不細工なとこ含めて、好きになることができたんですよ。きっと、喪われた光景は二度と返ってはこないし、自然破壊もさらに進むんでしょう。切ない現実をしっかり見据えながら、おれにできる“罪滅ぼし”は何なのか? 簡単には答えは出んと思うけど、一生かけて考えていこうって、決意できたんです」
「“罪滅ぼし”?」
「うん。ニュアンス悪かったら、“恩返し”って言ってもええかも知れん。そうやわ、君らを案内することは、きっとおれの“恩返し”やったんやと思うわ。ずっと昔からおれらをはぐくんでくれた、この地に対する恩返しかな」
「健吾さん」少しうるんだ瞳を細めて、静枝が立ち上がる。
「わたし、今日はまた、大切な宝物が増えてしまいましたよ。あなたに出逢えたこと。あなたと一緒に、想い出の梅林を観てまわれたこと。健吾さん、今日は、ほんとうに、ほんとうに、ありがとうございました」そう言って、深々と頭を下げる。
「あれ? もしかして、もう締めに入ってはります?」感情に流されないように、上を向いて眼をしばたたかせながら、あえて剽げた口調で、健吾は言う。
「誤解せんといて下さい。クライマックスはこれからです。とっておきの場所があるんですよ!」


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