山本太郎を超好意的に解釈してみた

彼の行動が不快な理由

前提共有

山本太郎とは参議院議員であり、れいわ新選組の党首を務める人物である。
2024年の年明け早々に起きた能登半島地震において、市長や政府の呼びかけに反して現地入りしたことに関して現在(2024/1/8)批判を集めている。

「マナー違反」と「堂々と活動」という認知的不協和

現在能登半島に個人で向かうことは、法を犯してはいないが明らかにマナー違反の行為である。今の世ではマナー違反は批判されるものだし、それだけで辞職、酷ければ精神を病んだり自殺したりする人もいるほどである。ところが彼はやめないし、精神的にしんどそうではないし、堂々と活動を続けている、少なくとも表面上は。

傍から見ればそんな状況は不自然に感じるものだ。
そろそろ多くの人は彼に道徳的な対応を求めても無駄なことを悟り、「なんて面の皮が厚いんだ」という感情を持てどもそのはけ口はない。その状態は心理学的には「認知的不協和」と名前がついていたりする、典型的な不快な状態である。

認知的不協和とは自分の認知とは「人が自身の認知とは別の矛盾する認知を抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語」(ウィキペディアより)であり、この場合でいえば「マナー違反者がいる」という認知と、「それが一部で持てはやされ、堂々と活動を続けている」という認知が矛盾し、人は一般にその状況に不快感を感じる。そして人は認知的不協和を解決するために色々な理屈を考える。色々な人がその不快感から逃れようと考えた理屈を、自分なりに纏めて紹介する。以下のようなものを信じることでその不快感から逃れることができる。

  1. 彼とその信者は頭が悪いので、その行動が本当に世の役に立ち人々に求められていると思っている。又はダークヒーロー的なものを気取り、「批判されても、今は認められなくても、未来のためにやるべきである」といった決意を固めている、痛々しい集団である。私人逮捕系Youtuberの同類とみるのがこの説の特徴である。

  2. 彼の行動は「ビジネス」であり、票を獲得し、生活の糧を得るための手法である。彼に投票している人は叶わない夢を見せ続けられている被害者でもある。実際、そういう言動に魅力を感じて票を投じる層は存在するという事実がある、何故なら彼は当選しているのだから。まっとうな立候補者はそんなところの票は誰も欲しがらないため(無能な味方は一番の敵だ)、そこに足を踏み入れれば独占状態である。それで日本を変えることはできないが、国会議員の席を何席か確保し政党として認められて国会議員の給料をもらう要件を満たすことができる。頭の悪い信者は叶わない未来を信じて利用されているに過ぎない。某NHK党はおそらくもっと露骨にこの手法、最終的な目標が金儲けなのかは知らないけど。名誉的な意味合いで避けられる分野だからビジネスとして独占的になる、という状態は一昔前の風俗業(性産業)でもあったようである。(橘玲の本に何度か登場する話)

以上のようなことは山本太郎を悪と定義し、「マナー違反者である」こととの矛盾を解消する。支持者を悪の側に入れるか、被害者の立場に置くかがこの説の分かれ目である。

上の例は多少は当たっている部分もあるんだろうが、現実はそんな単純化された「理想的な悪の構図」のようなものは存在しないだろう。そう考えておくと楽になるというだけである。彼自身も自分が打算で動いているのか、心からそう思っているのか、その両方かの違いが分からないこともあるだろう。

彼はどのように社会の役に立っているか

そういう楽になる方法ではなく、ここでは彼も世界の役に立っているという考えを示そうと思う。ただしそれが「彼が起こす負の影響」と比べてどれほどのものかはわからない。ただ少なくとも、「彼の起こす良い影響」を考慮して、「悪い影響」を批判するべきである。これを怠ると、少しの悪い面だけを見て吠える、厄介な部類の環境活動家や動物愛護団体や政治家と同類になってしまう。

「やべーやつ」の支持を受けている

旧Twitterで「彼の支持者は各学校のクラスに一人いたか居ないかくらいの、話の通じないヤバいやつの集団でできている」という意見を見た。以下、皆さんやばい奴を見たことがある・想像できるという仮定で進めるので、心当たりのない幸せな人には申し訳ない。

文科省の公表データから令和2年において全国に小学校は19525校あり、各学校、一つの学年に平均2クラスあったと仮定する。するとそれだけでも同じ年齢で「そういう人」が4万人弱おり、有権者の層を18~80とすればおよそ250万人の有権者が彼を支持する可能性のある層となる。

これは多くを当選させられなくても、数議席獲得するのには十分な数と考えられる。因みに2022年衆議院議員選挙の比例代表においてれいわ新選組は約230万票(全体の4%、2議席)獲得したそうで、フェルミ推定ででた数字が微妙にリアルで何とも言えない気分になる自分がいる。

支持は同時に受け皿でもある

人間は徹底的に社会的な動物らしいので、一人で生きていくことはできない。どんなにやばい奴であっても誰かとつるむ。だが私たちはやばい奴と関わりたくない。子供はそういう人を集団で虐めるが、精神的に大人になる(社会に適応する)につれて「そっと距離を取る」ということが可能になる。

その結果「やばい奴」は孤立し、良くない集団に向かい入れられることがあると想像する。例えば闇バイトと呼ばれる詐欺の受け子や、強盗の実行犯として雇われるだろう。集団に向かい入れられなかったものは孤独のうちに発狂して通り魔殺人犯やレイプ犯になるかもしれない。人間にとって孤独はそれくらい耐えがたいものであるようだし、共同体のルールは強いのでそこに属してしまえば法より共同体のルールを優先するようになるだろう。(普通の人でも会社という共同体に依存していれば命令されれば法や道徳を侵して不正をする。共同体に縛られるのは人として自然である)

社会の治安を脅かす人への進化分岐に山本太郎信者が存在するなら、これはなんと平和なことだろう。みんなこちらへ進んでほしくはないだろうか。
少なくとも山本太郎信者の多くはそういった犯罪をしていないだろう。彼は結構いいことも言ってるので、支持者はいいことも常識として知っている。(実践できているとは限らない)
その常識を無視して犯罪にはしるのは認知的不協和を乗り越える強烈な理屈が必要で、それを乗り越えてしまうような人はどんな環境でもそうなるため山本太郎を批判することはできない。

電車で不道徳者を叱って山本太郎を宣伝している場面を目撃しても聞き流せばいいし、SNSで「政府の対応は遅すぎる!」と文句を言っていても「いつものね」と思えばいいし、他の進化先と比べて実害は非常に少ない。これが私の思う、「山本太郎の効能」である。

まとめ

勿論ここに書いたのは想像だし、これが正解というつもりもない。ここに建てた理屈の中にもいくつも詭弁が存在しており、その正当性を主張するつもりもない。ただ「そういうこともあるかもしれない」と思ってもらえればよい。
これを書いた理由は「世の中は悪と正義にくっきり割れるものではないし、どの判断が正解かなんて起こってみて、しばらく経たなければわからない」と考え、過激にならないでほしいからである。

彼のような人の支持者になる人は、どこか悲観的で怯えている。怯えているがゆえに攻撃的になり、孤立していく。怯える理由は能力主義によりふるい落とされ、打ちのめされてきたからなんだろうと勝手に想像する。
その中で山本太郎のような人は、以下のような点で光り輝く太陽のように見えるのだろう。

  1. 過去の自分と同じような行動をし、冷たい視線や罵倒を浴びることもある。

  2. それでも胸を張り、弁が立ち、相手を言い負かして自分の正当性を主張している。

  3. 自分のことを認めてくれ、「一緒に頑張ろう」「あなたの応援が必要だ」と言ってくれる。

山本太郎およびその支持者は、確かに自分たちの社会の邪魔であることもあるだろうが、そこに怒るのは色々と筋違いである可能性がある。

多くの人が穏やかに過ごせますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?