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コロケーションと言語の詩的側面について

 コロケーションという用語がある。小林真大さんの『詩のトリセツ』(五月書房)という本でわかりやすく説明されていた。コロケーションとは、二つ以上の単語を組み合わせてできる言葉のつながりのことを指し、特に、「招かれざる」と来れば、次に続くのは「客」というように習慣的に決まっている関係のことを指す場合が多い。
 
 私たちが普段使っている言葉は、日常生活の中で使い慣らされてきた表現である。情報伝達に便利なように洗練され、固定化した組み合わせである。「お似合いの」と来れば、「服」とか、「二人」とか。たしかに、ある程度予想のつく組み合わせを使わなければコミュニケーションは取りにくい。常に創意工夫に満ちた表現を日常生活の中で処理できるほど人間は優秀ではないと思う。紋切り型の言い回しや、あまり考えなくても先が予想できる表現を使わなければ、会話は常に緊張を強いられる上に、誤解によるトラブルも生まれるだろう。

 だから日常生活のなかでは、固定化した言い回しを身につけることは必須で、お互いに余計なことを考えないですむように表現に配慮することは、齟齬なくコミュニケーションをとるための技術として、とても大切なことだと思う。

 一方で、自分だけが感じている特別な感情やたった一度だけの特殊な体験は、固定化した言い回しでは語ることが難しいという面もある。そんなとき、慣習的なコロケーションをあえて逸脱することで、自分が感じている真実に肉薄できるということもあると思う。

 例えば私の手は、冬になればよくあかぎれになる。ひどいときは、指を曲げるのも辛いぐらい、皮膚がひび割れ、血が滲むことがある。だから冬場は絆創膏が必需品で、一日に何枚も絆創膏を貼り替えることがある。通常のコロケーションでは、「絆創膏を」と来れば「貼る」とか、「使う」が一般的な組み合わせだと思う。しかし、そのような表現では、絆創膏をかけがえのないものとして求めている私の現実にはそぐわない。この場合、伝達するのは難しくても、「絆創膏を恋い慕う」とか「絆創膏を妻とする」という表現の方が自分の置かれている現実に合致していることがあると思う。(これも詩的には悲しいほど陳腐な組み合わせで申し訳ありません。)

 このような、一般的な使用法から離れた言葉の使い方が、詩に繋がるのだと思う。どうしても、日常の中では、言葉の持つこのような側面は難解なものとして敬遠されがちであるし、役に立たない感傷的なものとして軽視されてしまうこともある。しかし、この妙な、伝達の難しい詩的言語は私たち一人ひとりの固有の現実と結びついていて、それぞれの人生と切り離すのは難しい。それぞれに一回きりの特別な現実を生きていているのだから、ありきたりの言い回しで全てを表現することはできないだろう。その意味で詩的言語は、個人の、その特殊性、一回性に寄り添う言語であり、一人一人の体験する現実が異なっている以上、詩的言語はすべての人に等しく意味を持つはずなのだ。

 このような意味では、言語の詩的側面は、齟齬なく情報伝達を行う技術と同じぐらい重要だと私は考えている。別に全ての人が詩を書くべきだと言いたいわけではない。簡単には説明できないもの、理解するのに多くの時間がかかるもの、役に立たないように見えて実は自分にとって切実なものと向き合うためには、情報伝達に便利なありふれた表現では届かない世界があると言いたいのだ。現代は、なんでもわかりやすく説明しなければならないし、説明できるという風潮が世の中を覆っている時代だと思う。しかし、簡単には理解できない現実と向き合うためには、言葉の持つこのような側面について、改めて考える必要があるのではないだろうか。


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