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春風に誓う

今年の4月1日、清水寺にお参りした。
清水の舞台を踏みしめ、第二の人生が満ち足りたものになるよう、仏様にお願いするためである。
その日は風が強かった。境内を歩くと桜の花びらが舞い、髪が乱れた。
清水の舞台は2年前に板を張り替えたばかりで、強い陽射しに輝いて見えた。靴を履いていても、木の温もりと、やわらかい感触が伝わってくる。ここを裸足で歩いたら、さぞ気持ちよかろうと考えた。

京都に住んでいる私は、よくお寺や神社におまいりする。手を合わせ、日々の感謝の後にお願いすることは、大抵決まっている。

息子が幸せでありますように。
我が家の猫たちが健康で生活を楽しめますように。
私が物書きになって、生計を立てられますように。

普段、自分の願い事は最後にするが、息子も独立したことだし、この日は一番最初に心の中で呟いた。

私が文章を書く仕事がしたいと考えたのは、学生の時である。
自分の文章を誰かに読んでもらいたくて、大学を卒業してすぐ新聞記者になった。希望した部署に配属され、文芸、宗教、家族や食の話など、企画をたて、各地に出張して取材し、多くの記事を執筆した。いわゆる特ダネを狙う記者ではなかったが、仕事は楽しくてたまらなかった。
しかし、46歳の時、「戦力外通告」を受けたとしか思えない出来事が起きた。
私は最初、戦力外通告というのは考え過ぎで、成果を出せばまた認められるのではないかと思った。また、そう信じたかった。
しかし、組織というものは、どれほど一生懸命働こうと、人を切り捨てる時はあっさりと切り捨てるものである。
そのことに気づいた時、私は心身ともに疲れきっていた。自分の居場所はこの会社にはないと判断し、48歳で早期退職した。
退職が決まった私にある記者は「子どもがいるのを理由に、配慮してもらいながら働いたくせに、会社が傾いたら逃げるのか」と吐き捨てるように言った。

退職金で住宅ローンを返済し、息子と向き合う時間ができた。健康にも大きな問題はない。まあ恵まれた再出発といえただろう。
それなのに、心は晴れなかった。私の心の中には、どす黒い怒りがいつまでも渦を巻いていた。
1年ほどフリーライター生活をおくり、腕試しのつもりでアメブロを書いた。びっくりするほど、つまらない文章しか書けなかった。
しばらく考えた末、文章を書く仕事を一度止めることにした。
幸いにも、京都市の外郭団体に、まちづくりの仕事をする契約職員として採用された。
それから5年がたった。

思えば、新聞記者として働いていた時は、毎日、新幹線に乗って旅をしているようなものであった。
目的地を決める。切符を買う。座席に座って到着を待つ。車窓の外を、びゅんびゅんと、もの凄いスピードで景色が流れていく。
そのせいだろう。私は、自分が書いた記事ははっきり覚えているのに、記事完成に至るプロセスをぼんやりとしか思い出せないことが多い。
新聞社を辞める直前には、自分でも、書いた記事がつまらないと感じることが増えた。新幹線に乗る時のように、まず目的地、つまり目標を定め、効率的に取材をし、記事を量産する方法が、既に限界だったのかもしれない。

新幹線を降りた私が悟ったのは、健やかな心と体でよく物事を見なければ、人の心に響く文章は書けないという、ごく当然のことだった。
まちづくりの仕事か終わったらまた文を書こう。そう決めて、今年の春、ようやく仕事に区切りがついた。
もう新聞に記事を書くことはないけれど、インターネットで文章を発表することはできる。

これからは独りで、自分の足で歩くのだ。

私は清水の舞台の中央に立ち、見得を切る役者になったつもりで、ぐいと正面を向いた。青空の下、鮮やかな朱色の三重塔(子安塔)が小さく見える。それは、たった1人の観客のように私の方を向いていた。


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