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『全体性と無限』序文(の3/1ぐらい)のパラフレーズ

哲学書は内容を理解するのが難しいし、読んだからといって日常生活・仕事で必要な知識が増えるわけではなく、非常にコスパが悪い書物である。

では(素人が)それでも哲学書を読むことで、得られるメリットは何なのか?

自己ブランディング(「自分は難しい本を読める人間です」という対外的アピール)や、
学術共同体への疑似的な一体感の獲得(「俺は現実社会では認められていないが、哲学書を読むことで学術共同体に参画している、その意味で意味ある存在なんだ」という自負
といった外在的なメリットがすぐに思い浮かぶが、何か内在的なメリットはないのだろうか。

おそらく「思考を触発し、文章を書く上での道しるべになる」というのがあるだろう。大体普通の人間は、無意識的になんとなく考えていることだとしても、思考様式(考えるための場所)と言語(考えるためのツール)の限界があるので、自分ひとりの力ではそれを表現することはできない。

最近はやりの「言語化」という概念が、「自分の思考を他者に説明可能な形にする」という社会活動を目的にしたものであるのとは違い、哲学書の力点は「自分自身が気づいていなかった自分自身の思考を発見する」という点にあるような気がするが、どうなんだろうか。

前置きが長くなったが、20世紀フランスの哲学者であり、倫理学・他者論・責任論に大きな影響を及ぼしたレヴィナスの主著『全体性と無限』の序文(の前半3分の1ぐらい)をパラフレーズすることで、「戦争」について根本的に問うてみたい(自分一人の力で、戦争について論じるのは、能力的にも胆力的にも厳しいでしょう。。。)

1.戦争によって、現実の現実性が顕わになる


 戦争は例外状態を作り出す。
 戦争は私たちの日常としての道徳を挑発する。戦時下において、政治は戦争勝利のための理にかなったreasonable技術として考えられ、道徳は単なる夢想(=非理性unreason)として退けられる。
 戦争によって、現実は最も明白な形で現実性を顕わにする。戦争によって、既存の社会秩序と結びつけられた意味秩序が攻撃され、意味を剥がれた存在者は純粋な存在となり、意味を剥がれた出来事は純粋な経験となる。    「純粋な存在の純粋な経験が生起する」ことが意味するのは、既存の意味秩序によって担保されていた存在者の自己同一性に穴が空くということである。しかしこの戦争による「実力行使(=暴力)」は、存在者を外部的に傷つけ殲滅するという形ではなく、存在者を内部から「自己同一性を裏切らせる」という形で自己破壊させるという形でなされる。戦争による新秩序に巻き込まれないままでいる人は存在しない。

2.終末論としての平和が必要である


 戦争において顕わになったのは、西洋哲学を支配する全体性の概念として捉えられるであろう。全体性の輪の中で個体はある位置を占め、ある「意味」を譲り受けるのだが、それはその個体の唯一性を喪失するという対価を伴う。個体は全体性に回収され、付与された意味(それは全体性の究極的な意味の連関の一つの部分)が優先され、その存在がないがしろにされる。
失われた自己同一性を回復するためには、「戦争の終結による平和の実現」では十分ではない。平和への確信は、独自の=根源的なoriginal存在との関係が必要である。
 歴史の最終局面において平和が達成されるというメシアイズムは、哲学的明証性と相容れない。しかしそれは、相容れなければならないのだ。「終末論とは、つねに全体性の外部にある剰余との関係である。」終末論は客観的全体性がすべてではないことを指示するのであって、全体性の中に目的論的体系を導入することが意義なのではない。
 終末論は、存在者を全体性の意味連関から解放し、それ自体の存在の基で(「自分で話すことができる存在者」、「成人」として)十全な責任を果たすように求める。問われるのは、歴史の全体の中での位置づけによって導かれる意味ではなく、瞬間そのもののうちでの意義、「文脈なき意義」なのである。

3.哲学=知の外部としての無限=平和への希求


 全体性、明証性、客観的歴史といった概念を超えた所で、終末論としての平和を考察するのが本書の立場である(「平和は戦争が発見する客観的歴史のうちに収まることはない。」)それが単なる臆見や主観的な錯覚以上のものであるためには、終末論を哲学の代わりに置き換えるという方略ではなく、哲学的明証性から出発し、哲学的全体性が破られる地点まで遡行するという方略が必要である。この地点こそ、全体性を条件づける底であり、無限(定)である。この方略は、いわゆる「超越論的方法」に近いといえる。
 「無限の観念においては、つねに思考の外部にあり続けるものが思考される。」哲学的全体性によって組織化された「知(真理)」との関係としての経験以前の、原初的な関わりが無限との関わりである。ゆえに、無限との関わりにおいては「客観的経験」という語では表現しえない。しかし、経験が「絶対的に他なるもの」との関係を意味するのであれば、それは経験の極北といえるだろう。

4.主体性を擁護するためにはどうすればよいのだろうか


 戦争の客観主義と対決するのは、自我の純粋な主観主義ではない。終末論の導入によって全体性から解放された主体性こそが対置される。存在から疎外された無力な自我が全体性の輪に回収されてしまう一方で、無限の観念に基づく主体性はそれを砕きうるということである。
 主体性を擁護する。客体否定的(客観否定的)な形ではない形で。死の先駆に駆動された「頽落した世人→本来的自己(主体)」というハイデガー的図式ではない形で。つまり、「無限の観念に基礎をもつもの」として。
無限(の観念)はどのように生起するのか。また、全体性から解放されて個別性を保ち続けたままの主体性(「乗り越え不可能な個別のものと人格的なもの」)が無限の領野をどのようにして〈自らのものとして保持する〉のか。
 無限の観念とは、「無限定な存在者」を位置づけるために拵えられた概念ではなく、無限(的存在者)の存在の仕方である(つまり「無限の無限化」)。つまり無限の観念が生起するのは、〈自我〉がその全体性によっては包括=理解することが不可能な存在者をそれでも包括するという「途方もない事実」によってだということである。自らにとっての〈他〉を迎え入れるものとして、主体性は「歓待性」によって特徴づけられることとなる。
自らの限界を超えて〈他〉を歓待するということの意味することは、そうした事実(〈同〉から溢れ出る〈他〉)を事後的に超越論的(上昇的)思考によって理解=掌握するということではなく、あくまで内在的に限界が超えられるということであり、その意味で「存在への下降」なのである。
 こうした内在、存在への下降は、現実態(=行為)の概念によってよく表現されてきた。それと対照されるのは、可能態、(純粋な)知、超越論的思考といった概念群である。両系統の絡みは二種類考えられる。(ⅰ)思考の受肉化(可能態→現実態、思考したことを行為すること、純粋な知が文脈(現実)に否応なく置かれることによる「汚染」)、(ⅱ)行為の意識化(現実態→可能態、行為したことを意識すること、行為の文脈(現実性)が剥がれ純粋な知として「濾過」される)。(ⅰ)は(ⅱ)に先行する。そして、意識の受肉化((ⅰ))が理解される((ⅱ))としたら、それは無限の観念が意識を暴力によって揺り動かすときである。つまり両系列の二重の絡み合いは、単に(ⅰ)を(ⅱ)が超越論的に(メタ的に)理解=掌握するという形では行われない。現実態に含まれる他動性の暴力-思考の自己完結性と対照される―、つまり無限の無限性(無限の観念)によって思考は変容を迫られるのである。「無限の表象」が思考によって理解=掌握された「純粋な知」であるのと対照的に、「無限(の観念)」は観想的知と活動性両方の共通の基礎なのである。

…(to be continued)



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