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室井光広日録(21)

2006.1月21日(土)雪。庚戌
磯もとどろに寄する波…しぎたつ沢の秋の夕暮を思う夢(うつつ)。雪ふりしきる朝。

胸クソわるくなる学者たちの柳田批判にも、がまんしてひと通りは眼を通す。

知の制度に加担する者たちだけが鋳型…というような、因襲にあらがうというカタチのもう一つのインシュウにまったく気づかぬ者たちのモンキリガタ。内省を口にする彼らに欠けている内省。柳田がもっていた真の革新と内省。

腰をいたわる一日。戌の日にふさわしく。

民俗(学)につんのめっている50男。
数年前に水面下の運動が一方的になされた東北芸工大への就任話を想う。流れて、助かった。イソップふう? いや、ちがう。
<東北>をブランド化するプロジェクトの一員になってたち働いたそのあげく、<地方の名士>におさまるオゾマシイ道を歩んだかもしれないのだ。
まもられている。何かに。

まもられるためには、何事にも、絶対的にオクレルことが大事。オクレンボ将軍。Kafkaのつぶやきをまねる
――Spat,spat.(遅い、遅い…)

寺子屋教師になったのが50すぎ。遅れ、遅れて。今頃になって。
しかし、この一年の仮採用レッスンで、業務内容がわかり、すでに疲労気味。どのくらいもつか、まったく自信がない。仮の宿と同じく、可能な限り…でよいのではないか。むすぶことと解くこと。同じ重さ。縁的な存在。

・・・・・・
あの震災の5年前の日録にすでに<東北>ブランド化にたいするアレルギー感覚を書き込んでいたのだから、すばらしい透徹ぶり。<地方の名士>はオゾマシイこと。遅れ遅れて生きて、無名でこの世から去る、そのほうがよいのだ。
(2024.2.27)

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