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外苑創建の趣旨と将来の展望〜①明治神宮外苑が交わした二度の約束

明治神宮外苑は、明治天皇崩御の後、その遺徳を称え、国民の憩いの場となることを目的として造られた。
国費で造られた内苑に対し、外苑は澁澤榮一などが名を連ねる「明治神宮奉賛会」の呼びかけで、広く国民から集められた献金と献木、青年団の勤労奉仕により国民的事業として造営され、1926年(大正15年)に完成、同年10月に明治神宮に奉献された。

その際に、奉賛会は将来にわたり遵守するべき8項目の要望を神宮側に申し入れている。それが「外苑将来ノ希望」であり、明治天皇と皇太后に対する崇敬の念という理念を失ってはならない、明治神宮に関係のない遊覧目的とした建物を建てない、絶えず修理を怠らない、外苑の美観を永遠に保たなければならない、など、外苑造営の理念やその使用目的、使用方法について厳しく定めたものである。
ただし、奉賛会から明治神宮が「奉献」された時も、土地は国有地のままで「国からの無償貸与」であり、明治神宮は以下の戦後の払い下げの時に、
初めて土地を手に入れることになる。

明治神宮外苑は戦後1945年からの一時期、アメリカ進駐軍GHQによって接収された。外苑全体の接収が解除されたのは1952年3月だが、この時点でもまだ明治神宮は「国から土地の無償貸与を受けている」状態であり、土地は国の所有のままだった。
接収解除後の処遇について、一旦国が委員会を設置し、外苑を運営するという案がまとまるが、これに明治神宮が猛反発したのである。国と明治神宮の間で激しい攻防が繰り広げられ、結局当時の文部省が明治神宮の帰属について払い下げの決定をしたのが、1952年年末。その後「国有境内地処分法」に基づき、時価の半額での払い下げの手続きが完了したのが1957年だった。半額といっても莫大な金額であるため、10年間の分割によって支払われた。
なお、この時払い下げの対象とはせず、国有地のまま残ったのが女子学習院(戦災で焼失)で、現在の秩父宮ラグビー場の土地である。

この決定の際に、国(文部省)は、払い下げを求める明治神宮の強い要望を受ける代わりに、以下の譲渡4条件を守るよう提示し、明治神宮もこれを承認している。
▼学生を含め、国民が公平に使用できる
▼アマチュアスポーツの趣旨にのっとり、使用料・入場は極めて低廉であること
▼施設を絶えず補修する経費の見通しがある
▼関連団体を含め民主的運営をする
(明治神宮外苑七十年誌103頁)
このように創建時には奉賛会、払い下げ時には国から、と二度にわたって明治神宮が遵守すべき条件を言い渡されているのであるが、その約束事に今回の再開発が適っているといえるだろうか。

デザイナー、美術家、料理家。イタリアはヴェネツィアに通い、東京においても小さなエネルギーで豊かに暮らす都市型スローライフ「ヴェネツィア的生活」を実践しています。ヴェネツィアのマンマから学んだ家庭料理と暮らしの極意を伝えます。