見出し画像

晩秋のヴェネツィア 2016年

2016年の晩秋、ヴェネツィアに行きました。
その旅はひとことで言えば、法事のようなものでした。
マンマとの思い出のいっぱい詰まった家を整理し、チミテロにお墓参り
をし、家族や親しい友人たちとマンマの思い出を語り尽くしました。
いつものようにうきうきとする楽しい旅ではなかったけれど、
行ってよかったと心から思う。
私の人生もまたひとつターニングポイントを迎えていると感じています。
マンマが私に手渡してくれたものを大切に、
次へと伝えていかなければならないと思っています。


画像1

画像2

画像10

マンマのいないヴェネツィア

2015年に最愛のマンマ・ロージィを失ってから、初めてのヴェネツィア。
行く前からずっと気分は沈み、マンマのいないヴェネツィアに行くのが
こわくてしかたありませんでした。
日本にいるうちはその不在にも実感が湧かないものだけど、実はとても
泣き虫な私、ヴェネツィアに行ったら何を見ても泣いてしまうのではと
不安でした。

ところが3年ぶりのヴェネツィアに着き、懐かしい町を歩くと、自分がいるべき場所にいるという思いに、みるみる心がチャージされていくのを感じました。ここはやはり私にとって特別な場所。ヴェネツィアの町は一見変わりないように見えても、やはり色々と様変わりしていました。
そして何よりも、マンマがそこにいないという不思議。
おそれていた喪失感は、寂しさや悲しみを通り越して奇妙な非現実感にすり替わっているようでした。
行ってみないことには状況が分からないので、最初の週はネットで探した
近所のアパートを借りることにしていました。マンマの家の目と鼻の先の
見慣れた町かどのアパートに暮らすのも少しばかり違和感がありました。

画像3

画像4


ヴェネツィアの家で

到着の翌日、長男のアドリアーノに会い、さっそく今は空き家となっている
マンマの家を見せてもらいに行きました。
20年来通った懐かしい戸口の前で、その先はどうなっているのだろうかと、心臓がぎゅっと縮み、一瞬立ちすくんでしまう。
果たして、衣類などある程度整理してあったものの、想像以上にすべて
もとのままに残してある部屋を見て、思わず息をのみました。
家具はもちろん、キッチンも食器、リネン類も、バスルームの香水も、
まるで今もまだマンマが住んでいるみたい。あまりの懐かしさに
心がしめつけられました。
「何もかもまだそのままだ。マンマのいんげん豆だ」とアドリアーノ。
冷凍庫の中にはなんと大量のいんげん豆のストックが入ったままでした。
マンマがずっとここで私たちが来るのを待っていてくれたのだと思うと、
体が熱く震えてしまうほどでした。
いつだってこの家に来るたび「ああcasa mia、私の家に戻ってきた」という私を、喜んで抱きしめてくれたマンマだったのです。

マンマのふたりの息子たちはもうとっくに独立してこの家を離れています。
70代以降のパパやマンマと一番長い時を過ごしたのは、おそらく毎年数週間ここで一緒に暮らした私たち夫婦ということになるでしょう。
この家のことは実家のごとく隅々まで知っていました。
カンナレッジョのこの家にマンマがいる、という思いが私の人生の支えの
ようになっていたのです。
しかし、そう遠くないうちにこの家は人手に渡ってしまうのです。
アドリアーノの配慮で、その前にもう一度ここで過ごす機会を得たことに
感謝。鍵を預かり、翌週からはこの家に住むことになりました。

住み手を失った家はやはり埃をかぶり、どこか寂れていました。
日をあらためて、アパートから荷物を運び、家の掃除をしに行きました。
何もかも見慣れたモノたちを片づけていると、マンマと過ごした日々が
ありありと蘇り、さすがにこみ上げてくる思いで胸がいっぱいになって
しまいました。
同時に、どこかにマンマがいるような気もしてふっと不思議な感覚に
とらわれてしまう。数年前にマンマがサルディーニャ旅行に行っている間、この家に私たちだけで過ごしたことがあります。
あの時と物理的な状況は同じ。マンマがここにいないのは、どこかへ
旅に出ているだけ、と思えてくるのでした。

画像5

画像6


マンマのいんげん豆を煮る

その週末をフリウリで過ごし、月曜の夜遅くにヴェネツィアの家に戻ってきました。マンマがいた時と同じようにしつらえをし、その後の数日をここで
過ごすことになりました。
心配していたほど寂しくはなく、懐かしさと安心感がまさっているような、自分の家に帰ってきたというくつろいだ気分。
向かいの部屋にはマンマを本当のノンナ、おばあちゃんのように慕っていたシーラも住んでいるし、上の階には仲良しだったフォスカリーナも居る。
そしてここに来てからずっと常にマンマの魂、アニマの存在が身近にあり、あたたかく包まれているような気がしていました。
きっとほんとに居てくれたのだと思っています。

今から思えば、3年前に来た時、マンマには何か予感のようなものがあったのでしょうか。いつもは私たちはサロンのソファベッドを使うのに、前回に限ってマンマがメインの寝室を使うよう頑固にすすめ、譲りませんでした。
あの時、私たちは無言のうちにどこかでうすうすとこの日が来ることに
気づいていたのかもしれません。

画像7


ヴェネツィア最終日。
朝早くから、マンマが冷凍庫に残していたファッジョーリ、いんげん豆を
解凍して最も伝統的なヴェネトの家庭料理、Pasta e Fagioiを作りました。
ここにこうやっていられるのもすべてマンマとの出会いがあったおかげ。
マンマに教わった通り、使い込まれたマンマの鍋や道具を使って、すべてのことに感謝しながら豆を煮る。
豆をpassaverdureで漉していると、胸がつまって涙がとまらなくなって
しまいました。しばし、窓のそばへ行っておいおいと泣いてしまう。
これは、私なりのマンマとのお別れの儀式なのかもしれないと思う。
マンマありがとう。これからもずっと私の心の中で生きていてくれますね。

画像8

2013年のマンマの懐かしい姿。向かいの家の戸口にて

画像9


デザイナー、美術家、料理家。イタリアはヴェネツィアに通い、東京においても小さなエネルギーで豊かに暮らす都市型スローライフ「ヴェネツィア的生活」を実践しています。ヴェネツィアのマンマから学んだ家庭料理と暮らしの極意を伝えます。