2024-09-25 こたえなどないけれども

私だって言いたいこと書いてた時期がある。ただたくさんの詩に触れ色んな詩があることを知った。その中で惹かれたのが意味不明の詩だった。それだけだ。当時は意味わからないけど面白かった、そういう純粋なたのしさがだった、覗きたい、と興味を惹かれた。答え合わせなど考えたこともなかった。

自分は自分の書きたい詩があって でも惹かれるものは意味不に感じるものだった。当然別な衝動だったから迷いもなかった。好きなものと書けるものと書きたいものが別なことぐらい 小説書いてる時に気づいていたから違和感もなかった。そのうち書きたいことも尽きて明確な言葉が出なくなってきた。

けれどモヤモヤはずっとある、書いていくとなにかが違うことに気づく、ソレを掻き出すにはどうしたらいいか、考え続けて、ここまできた。自分の意思で意識で脳裏から出せる言葉なんてたかが知れてる、だからシュルレアリスムする。無意識を言葉として捉えるにはどうしたらいいのか、まだまだ掴みきれないが

私が艸と呼んでいるものが、いまいちばんしっくりくる。というかこれを極めていくことが正しいと感じる。ので、ここからがまたあらたな詩作としての一から始まりといったかんじで気持が作られ。そのなかでいま、一旦の区切りをおもい、またあたらしい書き方を模索するということは。結局創作という模索探求でしかないけど、

自分と対峙するなかで、自分が自分らしい姿を掴んでいく。いままでぼんやりと流されるまま生きてきたなかで、怒ってもしょうがないとか相手を立てるとか。それはひとはひと、自分は自分、誰が正しいか、なにが今いちばん必要なのか、損得ではなく結構ゆるく妥協してまあ譲り合うみたいな。
自分にこだわらないひとだったのでね、それで自分の場所を確保するような、ことを荒げたくないだけ。元来私は、めんどくさがりなんですがね。

ただ詩作矜持として、作品に対して、譲れないものがある、許せないことがある。頑固ですよね。自分のスタンスをしっかり掌握しておきたい。と悩み、迷いながら自分を定めていく。そういう気持がおもいのつよさが、自分にもあったのだなと、しみじみとしている。つうかこんなにハマるもんなのかね? と自分で微笑っている、今ですね 愉しいですね、シサク。