常人でなければならないという固定化された価値観

・組織に属して、他人とコミュニケーションをとらなければならない。

・人に迷惑をかけてはいけない。

・所属する組織の目標に向けて、貢献しなければ価値がない。


そんな価値観から少しはみ出すと、どこかで罰がつく。

だから、周りからどう思われるか、を気にする。

そのため、あらゆる人間関係を保つための活動を、

大切にしようという意識が働く。

でも、僕はそんなことは鼻から苦手で、

常人だと思われるために「必要である」と、

意地を張ってやってきたことだったりする。


これは先人たちが作り出した、「常人」の発想と価値観。

特に日本の文化的背景、経済成長の歩みを振り返ると、

この価値観が作られることは健全なことだったし、

そうでなければ、今こうして悠長に思想を語れる場がなかったのかもしれない。


ただし、この価値観から外れると、異端扱いされる空気がただよっている。

もしくは突き抜けると賞賛される場合もある。

仮に突き抜けて賞賛されたとしても、

その一瞬の栄光の先には、

また「常人」であるかどうかの判別を受ける。


つまり、先人たちが作り上げた社会の価値基準に、

個人の思想が抑圧される瞬間と、その連続性がある場合がある。


それには自分も気づいていなかったり、

もちろん周りが気づいていなかったりするものがたくさんある。


自分は常人なのか、それとも奇人なのか、

常人が作り上げてきた価値観の中で生きるつづけることが、

本当に個人にとって幸せなのか、それとも結果的に不幸になっているのか。


つまり、集団圧力を恐れるがあまり、それに対して過度なプレッシャーを感じて、

本来の自分の姿を表現することが億劫になって、歪な振る舞いになってしまうのではないか。


周りに常人がいる限り、常人のしきたりに従いながら、常人っぽく振る舞う、

それが僕が子供だった頃に定義された「大人」の定義だと思っていたけど、

僕が「おとな」になって感じることは、おそらくこれは「大人」ではない。


自分が常人の価値観に賛同できるのか、

そうでなければ、どんな価値観が自分には合っているのか、

そして(必要であれば)合っているコミュニティはどこにあるのかを問い続けながら、

模索し、前進することが、「オトナ」なのではなかろうか。


同調圧力に屈して、自分の抑圧を感じながら、

一定の生活基準が担保されていることを「常人」≒「大人」というのであれば、

僕はその価値観に強く違和感を覚えるし、そう思った時点で、

常人の発想ではないのだろうと思うと、

病気を患って、色々な価値観に触れて、何が大切なのかをよくよく考えられる機会を得られていることに、感謝したいなと思う日曜の夜なのです。


※常人がつくってきた価値観≒常識

テン

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