最後の大隊が掲げる「闘争」というコミュニケーション
先日投稿した「創作界のテロル」をテーマにした記事において、やはり個々の組織について一つ一つ語りたくなったのでそうしていこうと思う。
作品発表年代順に紹介するとして、今回はHELLSINGの最後の大隊について。
【死にぞこないの不死者ども】
ヘルシング作中でも引用され、OVAでもオーケンがアレンジしたのを印象的に採用した悪魔巣取金愚だが、この歌は原作中で使われているだけあって最後の大隊の思想を端的に象徴している(そもそもインスピレーションの一つであるのかもしれない)。
世界中を巻き込んだ戦争なんぞをした世界と社会が悪いのであって、戦場で人生観が変わり戦争から抜け出せなくなった兵士たちは被害者である。
そんな彼らに一夜の夢をプレゼントし、少佐は宿敵を倒す悲願の成就を夢見る。
彼らにとっては、自分たちを悪夢として封じ込めた50年の平和な時間と現実こそが悪い夢のようなもので、血と炎に沈む一夜限りの戦場こそが還るべき場所であったのだ。
※※※
ヘルシングは「自分の終わりは自分で決める」お話だと思う。
セラスも、アーカードも「こんな所でただ死ぬのは嫌だ」と思ったから、目の前にある命のよすがに縋ったら不死の吸血鬼になってしまった。
インテグラも殺されるのが嫌だから父の遺した最後の遺産に縋った。
ウォルターは老いさばらえて迎える終わりを否定し、青春時代の決着をつけることに全てを賭けた。
ペンウッド卿は己に割り振られた役割を、決して逃げずに全うした。
ベルナドットは仕事を全うするビジネスマンとして潔く最期を迎えたが、惚れた女と同じ道を歩むことにした。
アンデルセン神父は神の振るう暴力装置であらんとしながら、それでも最後の最後には優しい神父に戻った。
そして少佐は他者と交じり合う永遠を否定し、エゴを貫いた。
降って湧いてきた人生の終わりを否定したり、死を覚悟したうえで臨んだのに最後にはそれを翻したり、ヘルシングのキャラクターたちは本当に強烈な自我で以って、訪れた死を自分の納得がいく形で迎えようと必死に抗っている。
もちろんマクスウェルや由美江のように、抗いきれずに納得がいかない形で死ぬ者もいる。しかし抗ったことに変わりはなく、粛々と運命に従うようなキャラクターはこの作品にはいない。
少佐と、彼に感応されて付いてきた最後の大隊の兵隊たちは自分たちなりのハッピーエンドに向かって突き進んだ。
死ぬために不死者になるという矛盾は、自分たちが設定したハッピーエンドに到達するために必要な装置にすぎない。
【個々の主張】
笑顔の絶えない職場である最後の大隊も一枚岩ではない。
大部分が少佐に感化されてついてきた終わりの殉教者(あるいはダイナミック自殺志願者)とでも言うべき者たちだが、引用した台詞のように英国憎しを一番に掲げる者もいれば、ドクのように単なるスポンサーとして少佐を利用していただけに過ぎない技術屋だっている。
不死の身体に目がくらんだだけの俗物などは容赦なく切り捨てるが、ウォルターのように互いの利害が一致すれば利用しあう関係とて結ぶ。
このあたりの判断、采配、人物を見極める眼力を少佐は高く持つ。単にカリスマと演説だけのデブではない。
少佐は世界に対して個人として断固として主張するのであれば、それが敵であろうと尊重する。いやむしろ敵こそもっとも尊重している。
言いたいことやりたいことは言わせてやらせる主義である。結果は大体皆殺しなのだが。
だが少佐自身が50年耐え忍んできたように、主義主張をした結果が如何なるものであろうとも主義主張ができる場を提供され、思う存分それができるということは大変尊い。
だから別に、自分が抱える陣営に主義主張を違える者が混じっていても構わない。まぁさすがにこの期に及んで少佐の主義主張を理解できずに付いてきている往生際の悪い奴が混じっているとは少佐も思わず呆れていたようではあるが。
この絶対的な個人主義であることが、アーカードを宿敵とする理由なのだろう。
※※※
これが少佐のアーカード評である。「個」ではあるが同時に「群」でもある。
世界に個として立ち向かうを是とする少佐からすれば「弱々しい総体」は唾棄すべき存在だ。
そこにある永遠や共有、統合といったものを良しとし、憧れもするがやはり拒否する。
少佐とアーカードが真祖にな(れ)るシーンを見ると、共に血液が自ずから口元に寄ってきている。
劇中ではっきり言われていない設定の考察だが、ヘルシング世界における吸血鬼の真祖とは少佐やアーカードのような凄まじく強い自我とカリスマを持つ個人に、故人が縋りついてすり寄って成立する現象なのではないかと私は考えている。
「あなたに私の遺志を託したい」「こんな所で終わりたくないからあなたが引き継いでくれ」「私の力と命をあげるからお前がなんとかしろ」
吸血鬼になるということは、こういった諸々の弱い故人を丸ごと自らの中に取り込んで死に続けるということである。
主張がしたいなら一人でやれ。やって死んだなら大人しく一人でくたばれ。
少佐は個人の主義主張をする権利を尊ぶが故に、それが混ざり合って責任の所在が曖昧になる群体を忌み嫌う。
そう考えると、「我々はSSじゃない」と訴えてきた部下は呆れながらも敬意を払っていたのではないだろうか。流されてグダグダとするよりは真正面きって責任者に追及するのは見上げた姿勢である。
だから手ずから射殺する栄誉を与えようとした。まぁ射撃が下手くそだったから台無しだったが。
【総体に終わりはない】
総体や群体は欠けても補充すれば永遠に存続する。さりとてそこに個々の主張はない。
アーカードはそれ故に「さあお前はどうする?」「お前は何者だ?」と問う。「命令(オーダー)をよこせ」と言う。
個人である資格を失ったアーカードには、自らの意志と力で人の世に関わることは許されないという態度がにじみ出ている。
人の世に自ら関わる権利はもうインテグラの祖先であるエイブラハム・ヴァン・ヘルシング教授に敗北した時に失ったのだろう。
「世界がどう思おうと私は私としてここにいる」と少佐はじめとした最後の大隊が叫ぶのに対し、アーカードは真の化け物であるが故に社会や世界に隷属する存在たらんとしている。
先述したように、アーカードの不死の正体である膨大な命のストックとは、故人の命なのだ。死者は最後の審判の日に裁かれるものであって、この世に未練たらしく干渉してはならない。
たとえどんな形であれ生きているからこそ、人間であるからこそ人間に対して抗議も主張もできるのだ。
そして人間だからこそ相手に「お前は人間ではない」とレッテルを貼れる。
ヘルシングは始終このように相手を否定し殴りあい殺しあう物語であった。
だからこそ相手を真剣に見て、対等に接しようとする物語でもある。
否定すらも、闘争すらもコミュニケーションとして肯定する。
化け物はそのコミュニケーションの輪に入れず、人間だけが闘争に参加できる資格を持つのである。
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