R1グランプリ2024感想
R1グランプリ2024の吉住の一本目のネタ、だいぶ危ういなと思ったし倫理的にはあの構造は違うんじゃないかなと思う。
ただ、「デモに向けられる警察官の目と結婚に反対する恋人の両親の目が同じ」という部分はとてもいいと思った。
国家と家族が権力構造として相似形であることを鋭く風刺しているがそこに憎たらしさを感じさせない。
おそらく難しいのは、今の社会においてそういう鋭い批判が「安全な笑い」の枠からはみ出ないためには表面的には「政治運動家の方を笑う」という構造が必要ではあるようにも思えるということ。
「デモに参加する人」を笑うという構造がベースにあるからこそ、そういった人を狂人として抑圧しようとする存在としての国家権力と保守的な家族や結婚という制度が浮かび上がってきてはいる。
そこから「狂っているのはそっちだ」とひっくり返せれば心底痛快だろうとは想像するけれど、それをやってしまうとテレビショーという保守的な娯楽の中では本当に狂人扱いされてしまうのであくまでも表面的には「デモに参加する人」の方を過激として笑っている。だから例えば小藪や粗品のような保守的な印象の強い芸人がいるような場においても反感を買うことを巧みに避けつつ、かといって完全に権力に屈することもなくギリギリのバランスで一矢報いることができている。
と見えなくもない。
そう考えれば、「フジテレビらしいネタ」というボケも二重三重に含みのある皮肉なのかもしれない。
ところで、吉住のコントには自虐のニュアンスを感じることが多い。自虐というのは複雑で、自分の中の欲望と社会常識との間の葛藤に揺れ動きながらそれを笑いとして表現する芸なんじゃないかと思う。
二本目のネタにおいても「仕事よりも恋愛を優先し暴走する女」を笑ってはいるがあのネタはそういう女を馬鹿にしていると言えば馬鹿にしているかもしれないけど、決して完全に突き放しているわけではなく、ある種の共感を表現しているようにも見える。
笑いというのは、相手を完全に突き放すことでも完全に寄り添うことでもなく、その相手との微妙な距離感を楽しもうとすることだと私は思うのだけれど、だとすれば一本目のネタにしても吉住という芸人自身のもつ政治性に対する自虐のニュアンスが読み取れるような気もする。
もちろん最初に述べた通りかなり危ういんだけれど、政治運動に没頭している女を狂人として馬鹿にしているようでいてその孤独に寄り添っているようでもある。
そういう味わいってピン芸人の作り出す魅力だなと感じる。
街裏ピンクにしてもルシファー吉岡にしてもサツマカワRPGにしても自ら狂人を演じ、その狂気を笑っているようでいて、翻ってどこか世界の方が狂っているように感じる瞬間があり、その孤独の表現に観客として何か救われるような思いを抱くことがある。
昔、鳥居みゆきのことがすごく好きだったのだけれど、それもそういう感慨からくるものだった。
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