書き物。「推したるもの」1

最近、推しが出来た。
と、言ってよいのではないか、と思っている。

推し、という概念に対して全くと言っていいほど理解できなかった私にだ。
「ファン」のライトな言い方、程度にしか捉えていなかった私がだ。
「推しが尊い」ないしはそれに準ずる言葉を聞くたびに目にするたびに、苦虫を噛み潰したような、何処か退廃的な気持ちになり、目を伏せ、自虐的な気持ちに襲われていた僕が、だ。
その諸々の言説に対し、今ではなんとなく理解出来るような気持ちがする。

観察と結果について。
どんな時も推しを見れば元気になる、という状態への理解が進んでいる。
なにやら落ち込んでいる時や、気分が上がらない時、推しを見れば、聞けば、不思議と愛情が湧き出てきて、よし今日も一日頑張ろう、的な気分になるものだ。

自身よ、驚くなかれ、尊い、という言葉は、皆にとってごく個人的なものであったのだ。
自分にとって尊い、ということなのであって、他人にとってそれがどうか、ということとはあまり関わりがない。
勿論、推しを他人にけなされた場合は腹も立つだろうが、基本的には「推しが尊い」という言葉に感じていた違和感は薄れたように思う。

推しは恋人とは別物だ。
確かに。恋人になるとなんか違う。
推しを推している、という状態が気持ちいいのであって、愛し愛される存在ではない。もし万が一推しというものから恋人というものに移行する時があったとして、その物事の大きさに耐えられる気がしない。
ガチ恋は知らぬ。

「尊いよね〜」「ね〜」に対する違和感はどうだ。これも薄れた。
ごく個人的な「尊い」を共有出来ればそれはとても素晴らしい気持ちになるだろう。
どんな風に思われるだろうか、などの恐怖、自意識を超えて推しへの気持ちを共有出来る喜びは他にはないように思う。
別にいいのだ。声が大きく見えるだけで、彼らはその溢れんばかりの喜びが溢れていただけだったのだ。

「推し」は「ファン」とは違うのか。
違う。違うが、そのどちらもに属することがある。「ファン」であり「推し」である。

ここで私は気付いたことを言いたい。
見逃していたことだが、「推し」は動詞だ。元来、名詞ではない。
あたかも名詞のように使われるがそれは「推しメン」推してるメンバーという言葉が略されて「推し」となり、よりライトな層に使われるようになった、というだけの話で、
そもそも「推し」という言葉は能動的な動詞であり、行動のことを言うのだ、と気付く。

「推し」という名詞には動詞が含有されている。
このことが「ファン」との違いだ。
「推し」とはむしろ、心の動きのことだったのだ。

全然、違う気もしてきた。

ほっとけよ、と自意識に問いかけ、自分に罪悪感を感じさせる、他者の「推しが尊い」という言葉に対して、私は、確かにそうかもしれん、とジワジワと距離を詰めるつもりでいる。

「推し」とはなんぞや。
もうちょっと観察させてくれたまえ。

ありがとう、今までの私。
おはよう、これからの私。

読んでいただきありがとうございます。血が沸騰していますので、本当にありがとうございます。