信用ということ

プロ奢ラレヤー氏のノートから派生して考えてみたこと

雑に要約すれば、プロ奢noteの無料部分の内容はざっとこんなことである。
相談者A,Bと話していたら、「CがAちゃんの悪口言っていたよ」と聞かされて、落ち込みすぎて「友情とか信用って何なの?」という本質を、しかも事もあろうにプロ奢ラレヤー氏に尋ねるという、自らドツボにはまってしまう行動をしてしまった。しかしプロ奢の華麗なさばきに、何となく救われた。

何気ないエピソードとも取れるけど、読み返すと彼はあまり他者に傷や重荷を負わせてない事に気づく。
Aに殊更に「傷付いちゃったんだねぇ」と共感することもなく、でもBやCも過剰に攻撃する事もない。まあそういうこともあるよね、という話の中で、でもしっかり伝えている事は、話題が無くなると恋バナか悪口しか通貨がなくなってしまうということ。でも悪口は少しずつ友情を蝕んでいくということ。多少説教くさいところも無いわけでは無いけど、本当に2週間も病んでしまうほどの女子にはいい気付け薬にはなったのではないか。こういう事をきっちり言える言葉の捌き方が、プロ奢というメディアのすごさのひとつ。


そして、”オマケ”と称するところで、無料部分では有耶無耶にしていた信用について語っている。
そこでの展開は彼のnoteをお金出して読んでいただく事にして。
有料部分を読んでから、私自身の中でちょっとまとめてみた事を書き出してみる。

信用というのは、迷路のボードに玉を置いて、前後左右に傾けながら、落とし穴に落とさないように、ゴールまで運んでいくような営為だと思っている人は多い。彼らは言う。「信用を得るのは大変だけど、喪うのは一瞬」どんなにゴール近くまで行っても、トラップにひっかかったら元の木阿弥。もうその”信用”は二度と戻ってこない。そう言いたいように聞こえる。

だけど、本当にそうだろうか?それまで積み上げてきたものも、そんなにたやすく消える、そんなものなのだろうか?

信用というメカニズムを考えると、それはどうも嘘くさい。なぜなら、人間は、どんなに「信用するまい」と思っても、対峙する人間(や組織)との接点を持つ限りにおいて、それを信用せざるを得ないように出来ている。相手が発信するメッセージが、理解可能なものである限り、そのメッセージが正しいであろうと思い、メッセージ通りの事を期待してしまうのが人間なのである。

もちろん、何度も騙されているうちに「こいつの言う”やる”という言葉は”やらない”という意味なんだ」というメタな構文がメッセージであるかのように受け取られる様になる事はある。つまり、メタレベルではやはりその人の事を「コイツは嘘つきである」と信用してしまうわけである。
つまり、一度しくじっても、接点がある限り、信用は積み上がる。
信用は呼吸みたいなものだから。

しかし、信用している時でも時々は(そしてダマされた時には大抵)真偽を確かめたくなるのも事実である。そういうときには、その人を介さないでその人の他の側面を探る事だろう。T大学出ているとは言うけどと思って、卒業者名簿を取り寄せるとか、興信所使って留守の時の相手の行動を探るとか。
でも、人は疑い出すとキリが無くなる。そしてコストも馬鹿にならない。たとえそこまでしなくても、相手の言う事を「これは本当か?ウソじゃないのか?」と注意しながら、話の内容を理解しようとするのは頭脳と神経の負担がかなり重くなる。このあたりは人狼のようなゲームをやると理解も早いと思う。つまり、相手の言う事を信じ込むというのは、少なくともその時には一番シンプルで安上がりな方法なのである。

であるから、その人との接点を断ち切られない限り、信用は重ねられるのである。
もちろん、大事な物や多額のお金を返せなかったりしたら、たいていの場合はもうそれ以上その人との貸し借りなどの関係は成立しないだろう。債権債務関係だけの間柄となる事は、接点がなくなるにも等しい。。しかしそれでさえ、メッセージのあるレベルでは信用を置かなければ、裁判さえやることは出来ないのだ。だから、信用をボール運びのようなゲームだと思うのは、かなり間違いである。

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