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BGM

町中どこに行っても音楽が満ち満ちていて疲れてしまう。喫茶店に座っても、居酒屋に入っても、ショッピングモールを歩いても、スーパーマーケットの店内にいても、どこもかしこもBGMが溢れている。どうして、こんなに聴きたくもない音楽を聴かされることになるのだろうかとイライラしてしまうが、BGMはどこにいてもつきまとう。
場所によっては、音楽のボリュームが活気の現れと勘違いしているのだろうかと疑いたくなることもあるし、あっちもこっちもと音が重なり何の目的で音楽が流れているのかと首を傾げたくなる。むやみやたらに流されるBGMに気を取られて、リラックスもできなないどころか、一緒にいる人との会話さえままならなくなるのは、如何なものか。
流されるBGMも多種多様で、あらゆる種類の混乱をもたらす。ヒットチャート音楽、懐メロ、演歌にジャズにボサノバ、云々。中でも僕が一番苦手なのはポップスをクラシックやら雅楽やらイージーリスニングにアレンジしたものだ。
馴染みのない音楽であればまだ聴き流すことはできる。けれど、どこかで耳にしたメロディーが妙に甘ったるく、感傷的に、また耳良さげに、アレンジされていると、必要以上にBGMにとらわれてしまい、頭の中は蟻地獄にはまる蟻のごとく忙しくなる。聴かないでおこうとする意識ばかりがはたらき、それ以外のことに集中することができなくなってしまう。
BGMが流れていない空間で思い出すのは、京都大学近くの進々堂だ。進々堂を初めて訪ねた時は違和感を覚えた。近くに座っている他の客の咳払いや話し声、時々新聞や本をめくる音が聞こえる。店員がカップを置く音や飲み物が注がれる音が遠くで鳴り、入り口のドアの開閉する音や人が椅子を引く音がこだまする。ほどどなくして、空間の音がすべて耳に届いているとに気がつく。
人の動作がもたらす音は何も耳障りではなかった。ひっそりとした安らぎをもたらし、心がどこか静かになるような気がする。そして、その空間を他の人と共有しているような、ちょっとした温かささえも覚えたのだ。
BGMの有用さはあるのだろうけれど、時にはひっそりと耳を休ませたくなる。町の中ではすでにあらゆる音が溢れていて、音に気を配ることができないのかもしれない。そんなとき、どこか落とし穴のような静けさを見つけられれば、とついつい思ってしまう。