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偏見が止まらない(自動車篇)

時々、自分の中に薄暗い感情があることに気づく。それはほとんど生理的な好悪の反応のようなもので、自分でも制御することができない。偏ったものの見方、いわゆる偏見を持つとは、やむにやまれぬ人間のさがであり、ほとんど偶然の産物であり、どうしようもない単なる思いこみなのだ。日常の場面場面で自分の偏りを見つけ、日々そのような負の感情を蓄えていることが分かってくる。

例えば、自動車の運転中だ。
僕は四つ輪のマークやアルファベット三文字のドイツ車に対して偏った想いを持っている。無理な車線変更に始まり、逆車線走行の牛蒡抜き追い越し、カーレースのごとく疾走し、ただただ運転している仕草が偉そうなのだと評価している。それらの自動車を見かけると思わず、「オロ(愚)カーが来おったわ」と悪態をついてしまう。
もちろん、車が悪いのではない。冷静に考えなくてもそんなことは分かっている。ドライバーが悪いのだ。けれども、一つの仮説を作ってしまう。そのようなメーカーの車に乗る人たち、乗りたがる人たちの一定数以上が、危険で偉そうな態度を取った運転をするのではないかと。全然公平な見方ではない。ただただそういった車を見かけると、たまたまその手のドイツ車だっただけなのだが、その想いを募らせてしまった。
偏りついでにもう一つ。日本の中部地方世界最大の自動車メーカーの電気とエンジンの合いの子車は危険である。Pから始まる、もはや日本の国民車となった、アノ車だ。その車は時において、先に書いたドイツ車以上の凶暴性を発揮した運転をするし、その姿はほとんど傍若無人の裸の王様の体である。
運転席を覗き込むと大体において頑強な面構えの紳士淑女たちである。紳士淑女に悪いイメージを持っている訳ではない。そう、僕はその車に乗っている人たちに対しても、ある種の偏った想いを持っているのだ。
あえて断っておくが、これは100パーセント混じりっけなしの僕の偏見だ。エクスキューズも言い逃れも何もない。人によっては腹立たしい話かもしれないが、そう思い込んでしまっているのだ。けれども、僕は人のそういった偏りを見聞きするととても嬉しくなる。
その人が切り取る世界の断片が見え、そのような世界の存在に気がつかされるのだ。もちろん、シリアスではないものに限ってだが、、、。