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左側の視界

左の視界が限りなく狭い。左側の世界がかなりぼやけている。左に人が立っていたり、何かがあると、何だか落ち着かない気持ちとなる。断れる場合はできるだけ人には右側にいてもらうようにしているし、一人で席につくときはできるだけ壁が右側になるよう座る。
左目の視力が弱いことが分かったのは、小学校入学前の健康診断の時だった。左目がほとんど反応しない、左目でものをほとんど見ていないことが視力検査で判明した。念のためにと弟も検査をすると、弟は右目が弱視だと分かった。
何らかの遺伝の作用なのだろうが、弱視が発覚した当初は視力が0、03と、ほとんど左目は機能していないようだった。両親はけっこう悲嘆にくれたが、僕にとっては何だかよく分からないことだった。
実際的な不都合を感じたのは、眼鏡をかけなくてはならなかったことと、右目にアイパッチと呼ばれる大きな絆創膏の眼帯を付けることだった。右目ばかりを働かせるのをやめて、機能していない左目を強制的に働かせることが、この治療のねらいだった。兄弟そろって僕は右目、弟は左目を隠した生活が始まった。
利き目が隠されたことによって、世界は日中にも関わらず夕暮れどきのような薄暗いものになった。それまで普通にこなすことがでた日常動作はかなり制限された。歩くことも、読むことも、食べることも、ただひたすら面倒で億劫だった。常に追いかけられる日常にどこか嫌気がさしていた。
容貌の変化も嫌なことだった。左目は遠視の弱視だったので牛乳瓶の底のような分厚いレンズを、右目は使わないのでただのガラス玉をはめた不思議な眼鏡をかけていた。まだ子供用眼鏡などが売られていなかったので、妙に年寄りじみた眼鏡をかけていたと記憶している。その上右目には巨大な絆創膏がはられているし、その見栄えは異様だった。クラスメイトからは浮いた存在だったし、アレコレとからかわれた覚えがある。
そんな心苦しい思い出もあるが、左目があまり機能しない世界で育ってきて、どのような作用が僕にあったのだろうかという関心が今はある。治療の甲斐あってか、今は右目は0、1位は視力がある。全く見えない訳ではない。光を感じるし、左の世界はおぼろげながらも存在する。時々考えてしまう、もし左目が機能していたら僕はどう違った生き方をしていただろうか。左側に人が立っても気にならなかったのだろうか。
ところで、視力を計る数値の単位は何なんだろうか。長年目のことを気にしながら生きてきたが、ただ漠然と呼ばれる数値の単位に、疑問を持ったことがなかったことに今気がついた。