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ポテトチップス

ポテトチップスの袋を開けるときの感覚は癖になる。何の具合か異常に袋が頑固で、なかなか開かなかったり、じらされたり、あきらめかけたりしながらも、最終的に袋の隅を縦に裂き、プーンと油の香りをかいだときは痛快だ。やってやった!、という気持ちが盛り上がる。
きっとそれは子供の頃、ポテトチップスを食べるのを禁じられていた為なのかもしれない。母親なりに、高カロリーで高塩分、どんな油で揚げられたかも分からないジャンク菓子を子供に食べさせたくないという気持ちは、今は理解できる。けれども、幼い僕は友人宅でポテトチップスがおやつに出されたときは驚いた。こんなに旨いものがあるのかと。友人を前にして口いっぱいに詰め込んで、"ポテト"というあだ名さえ付けられた。
家では手作りのおやつが出されていた。ドーナツやら、かりんとうやら、ケーキやら、今考えれば手の込んで、高価なおやつだったはずだ。それは母親の愛情の結晶だったはずだけれど、僕は安易で、安価な、ポテトチップスを求め、ポテチ、ポテチと頭の中で念仏をあげていた。
近くの小さなスーパーで買い食いを何度もした覚えがある。父親が落としたり、どこかに起きっぱなしにしていた小銭をちょろまかし、スーパーまで駆けて行った。そのときの高揚感はちょっとしたものだった。
ある日、買い食いをしている僕を横目に、当時の小学校の担任の教師が歩き去っていった。その教師は徒歩で通勤していた。チラッとこちらを見られた、ような気がした。母親は自然食を教師に喧伝していたので、僕はどこかばつの悪い気持ちがしたし、母親にばれるのではないかとおびえた。
ポテトチップスの袋を開ける時の癖は、きっといろいろと混じり合った気持ちが開く瞬間なのかもしれない。歩きながら袋菓子をむさぼった快感や、公園のブランコで今日もやってしまったと感じた罪悪感や、ポケットに残ったレシートでボロを出しったときのやりきれなさが、その袋の中から飛び出してくるのかもしれない。