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プラットホームにて

プラットホームで列車を待つとき、しみじみこれから旅行にでるのだという気分となってくる。ホームに並ぶ人々の姿を眺めたり、路線図を見て車窓の風景を想像し、掲示板の列車情報から車中の過ごしかたを思い浮かべ、これからの数時間に思いを馳せる。
限られた時間にも関わらず何冊も本を鞄に入れてしまったことに気がつく。けど、車窓からの眺めを楽しみたいと思っている自分もいるし、目的地での予定を頭の中で整理しようとしている自分もいる。そんな取り留めのないことを考えている内に、列車がホームに滑り込む。
乗車中の時間は、移動しようとする積極的な行動と、列車に運ばれるだけの消極的な状況が、バランスを取って作り上げられている。通り過ぎる風景や町の姿を見ていても、手の中の文庫本の文字を追っているだけでも、ただただ眠りこけていても、体はどんどん日常から遠ざかり続け、空間や時間の捉え方が少し変わる。
子どもの頃の旅行のときも、そんな感覚の変わり方が面白かった。どれだけ遠くまで移動しているのかもよく分からなかったし、移動の時間が長くも短くも感じられた。そして、出先で過ごす時間がいつもより早く流れたり、ゆっくり流れたりしていたような気がした。
幼少の頃、多分運賃がかからない年齢までだったと思うが、よく父の東京出張につれられ、横浜の祖父母の家に1、2泊預けられることがあった。多分、外の世界を子どもに見せてやりたかったのだろうし、遠くに住んでいる祖父母に孫の顔を見せたいと思う、両親の気遣いだったのかもしれない。
馴染みのない祖父母との生活、見慣れぬ町並み、普段とは違った食事などを数日を経ただけで、日常から乖離した感覚を覚えていた。もちろん当時はそんな風に認識していたのではないけど、家に帰る頃にはまるで何週間も何ヶ月も家を離れていたような、不思議な気分を味わったのを覚えている。自宅の近くまで帰ってくると懐かしさがこみ上げ、やれやれやっと帰ったと思ったものだった。
近頃は、子どもの頃のような時間の流れを感じられなくなっている。どれだけ遠くに出かけても、どれだけ日常から遠い世界に行ったとしても、子どもの頃と同じような時間の伸び縮みは、うっすらとしか覚えなくなってきている。駅のホームに立つたびに感じているのは、子どもの頃の感覚と今の感覚が邂逅する瞬間なのかもしれない。